3-8 「アルバム」
第八話
ノートを閉じた。
書けなかった。
書く言葉が見つからなかった。
ペンを机へ置き、大きく息を吐く。
静かな部屋だった。
冷蔵庫の音だけが聞こえる。
湊はしばらく天井を見つめていた。
何もしない時間だけが過ぎていく。
ふと、スマートフォンへ手を伸ばした。
何となく。
本当に何となくだった。
写真アプリを開く。
一番新しい写真。
会社の資料。
昼食。
空。
スクロールする。
少しずつ時間を遡っていく。
やがて、一枚の写真で指が止まった。
水族館。
大きな水槽の前で、結が笑っている。
両手を広げて、
「早く撮って!」
と言っている瞬間だった。
思わず笑ってしまう。
「あの日か。」
写真を拡大する。
その笑顔を見ていると、不思議なくらい当時の空気まで思い出した。
『湊、写真撮りすぎ。』
『あとで見返すから。』
『絶対見返さないじゃん。』
『見返す。』
『じゃあ、ちゃんと可愛く撮って。』
そんな会話をしながら、一日中歩いていた。
もう一枚。
旅行先の旅館。
浴衣姿の結が、料理を前に嬉しそうに笑っている。
その次。
桜並木。
結が桜より前へ出てきてしまい、
「もう、桜撮ってるんじゃないの?」
と笑っていた。
さらにスクロールする。
コンビニで買ったアイス。
何でもない夕飯。
誕生日のケーキ。
どれも特別な日じゃない。
それなのに。
どれも幸せそうだった。
湊はスマートフォンを胸の上へ置く。
目を閉じる。
「俺……。」
小さく笑う。
「ちゃんと幸せだったんだな。」
幸せって、
もっと大きなものだと思っていた。
昇進。
成功。
夢を叶えること。
そういうものばかり追いかけていた。
でも違った。
一緒にスーパーへ行くこと。
くだらないことで笑うこと。
同じテレビを見ながら夕飯を食べること。
そんな当たり前の毎日が、
あの頃の自分には、ちゃんと幸せだった。
画面をもう一度開く。
今度は写真ではなく、
メッセージを開いた。
『おはよう。』
『今日も頑張ってね』
『雨だから傘忘れないで!』
『帰ったら話聞くね。』
『ちゃんとご飯食べるんだよ。』
短い言葉ばかりだった。
特別なことは何も書いていない。
それでも。
全部、自分を気遣う言葉だった。
湊は、一つひとつをゆっくり読み返す。
「俺……。」
ありがとうって。
ちゃんと言えたかな。
その時だった。
ふと、押し入れの奥にある段ボール箱を思い出した。
引っ越してから一度も開けていない箱。
立ち上がる。
押し入れを開ける。
一番奥。
少し埃をかぶった箱を取り出す。
蓋を開ける。
アルバム。
映画の半券。
旅行先で買ったキーホルダー。
そして、一番上に置かれた白い封筒。
見覚えのある丸い字。
『湊へ』
湊の指先が止まる。
封筒へそっと触れる。
開こうとする。
そのまま動けなくなる。
長い沈黙。
やがて、封筒を元の場所へ戻した。
箱の蓋を閉じる。
「……まだだ。」
その一言だけを残して、部屋へ戻る。
机の上には、閉じたままのノートが置かれていた。
湊はそれを見つめ、小さく息を吐く。
今日は未来を書くことができなかった。
その代わりに。
忘れかけていた過去を、少しだけ開くことができた。




