3-4 「大丈夫という嘘」
第四話
仕事を終えて会社を出ると、スマートフォンが震えた。
画面には、母の名前。
少し迷ってから、通話ボタンを押す。
「もしもし。」
『湊? 今、大丈夫?』
「うん。大丈夫。」
ほとんど反射だった。
『仕事中じゃなかった?』
「今終わったところ。」
『そう。ならよかった』
母の声を聞くのは久しぶりだった。
正確には、何度か着信はあった。
でも忙しい時に限って電話が来るから、あとで掛け直そうと思って、そのまま忘れていた。
『最近、ちゃんと食べてる?』
「食べてるよ。」
『寝てる?』
「寝てる。」
『元気?』
「元気。」
一つ尋ねられるたびに、同じような答えが口から出た。
どれも嘘だった。
食事はコンビニで済ませることが増えた。
夜は眠れない。
元気でもない。
それでも、本当のことを話す気にはなれなかった。
話せば心配させる。
説明するのも面倒だった。
『そう』
母はそれ以上、追及しなかった。
少しだけ沈黙が流れる。
駅へ向かう人たちが、湊の横を次々と通り過ぎていく。
『今度、帰ってこない?』
「今度?」
『たまには顔を見たいなと思って』
「仕事が落ち着いたら行くよ。」
また、同じ言葉が出た。
今度。
落ち着いたら。
時間ができたら。
それがいつなのか、自分でも分からないまま。
『分かった』
母は明るく答えた。
『無理しないでね』
「うん。」
『何かあったら、いつでも電話して』
「分かった。」
通話が終わる。
画面が暗くなる。
湊はしばらく、その場から動けなかった。
「大丈夫。」
口に出してみる。
誰に言ったわけでもない。
でも、その言葉はひどく空っぽに聞こえた。
結にも、何度も言った。
忙しくても大丈夫。
疲れていても大丈夫。
心配しなくても大丈夫。
結はきっと、信じていなかった。
それでも、それ以上は聞かなかった。
今の母と同じように。
湊は歩道の端に立ち、ノートを取り出した。
新しいページを開く。
しばらく迷ってから、一行だけ書いた。
大丈夫と言うたびに、誰かが離れていく。
書いてから、違うと思った。
誰かが離れていくのではない。
自分から遠ざけているのだ。
心配してくれる人を。
向き合おうとしてくれる人を。
何も話さず、大丈夫という言葉で扉を閉めている。
湊は書いた一文に線を引いた。
その下へ、書き直す。
大丈夫と言うたびに、自分から誰かとの間に壁を作っている。
結の顔が浮かんだ。
母の声が残っていた。
朝比奈の「話したくなったら聞きます」という言葉も思い出す。
みんな、自分の近くに立ってくれていた。
離れていたのは、自分の方だった。
湊はノートを閉じた。
答えはまだ分からない。
未来の正体も。
あの声が何者なのかも。
でも一つだけ、見つめ直さなければならないものがあった。
世界ではない。
自分だった。




