第九話
二人で床に向かい合って座る。
カーペットの上なのに、妙に冷たく感じる。
距離は近くて、少し前に体を傾ければ膝が触れてしまいそうだった。
凛は楽しそうだ。
さっきまでの緊張が嘘だったみたいに、目が少しだけ輝いている。
それに比べて、私はまだ、どうしても乗り切れない。
床に置いた手に、無意識に力が入っているのが分かる。
「今回はさ」
凛がそう言いながら、天井の明かりを見上げる。
「電気、つけたままでやろ。それなら怖くないでしょ」
今までは、いつも暗い中だった。
布団の中や、夜の部屋で。
こうして明るいリビングでやるというだけで、少しだけ現実に近づいた気がする……はずなのに、緊張は抜けなかった。
「ルール3、ちゃんと確認しよ」
凛はそう言って、ゆっくりと手を出す。
まず右手。
薬指を折り、親指をその上に重ねる。
残った三本を、きれいに揃えて立てる。
それを、もう一方の手でも。
両手とも同じ形。
見慣れたはずの形なのに、二つ並ぶと別の意味を持つみたいに見える。
「こうね」
楽しそうな声。
その指先が、照明の下でくっきり浮かび上がる。
私はただそれを見ている。
明るいはずの部屋で、逃げ道があるはずなのに、
なぜかここだけが、ゆっくりと閉じていくような気がしていた。
ルール3。
その手の甲同士を、合わせないこと。
言葉にしなくても、その文だけが、頭の中で静かに響いていた。
「やったら、声が聞こえるんだったよね」
軽い調子で、凛が言う。
まるで噂話を思い出しただけみたいに。
「……」
返事ができない。
喉の奥が、微妙に固まる。
気づくと、自分の手も同じ形をとっていた。
薬指を曲げて、親指を重ねる。
残りの三本を、立てる。
無意識だった。
やろうと決めたわけじゃないのに、体だけが先に動いている。
「せーの、でやろう」
凛が、少し身を乗り出す。
距離が縮まって、息づかいが近くなる。
「一緒にね」
念を押すように言われて、胸の奥がきゅっとなる。
笑っているけど、その声色に、ほんの少しだけ焦りみたいなものが混じっている気がした。
急かされている。
でも、突き放されるより、ずっと断りにくい。
明かりはついている。
部屋は明るい。
セミの声も、ハムカツの回し車の音も、ちゃんと聞こえている。
それなのに、この円の中だけ、時間が別の速さで進んでいる気がした。
「……」
私は何も言わないまま、手の形を崩せない。
凛はそれを見て、満足そうに口角を少しだけ上げる。
「じゃあ……」
息を吸うのが、見えた。
今なら、まだ間に合うはずなのに。
そう思いながら、立てた指先にだけ、やけに力が入っていた。
「いくよ」
そう言った友人は、ふっと笑みを消して、手の形に集中する。
両手とも、さっきと同じ配置。折れた薬指、重なった親指、まっすぐ立った三本の指。
その姿が、一瞬、違って見えた。
ふざけているようでも、遊んでいるようでもなくて——
何かに、静かに祈りをささげているようだった。
「せーのっ」
声が重なる。
その直前、急に怖くなる。
胸の奥がきゅっと縮んで、息が詰まる。指先の感覚が、現実から少しずれていく。
やっぱりだめだ、と思う。
今なら止められる。
手が恐怖で......動かない。
「やっぱり――」
そう言って声をかけようとした、その瞬間だった。
ぱしっ。
凛の両手が、ためらいなく、手の甲同士を、重ねた。
言葉が途中で切れる。
音が、ひとつはっきりと残る。
禁じられていた形が、完成してしまった。
凛が手の甲同士を合わせた瞬間、すべての音が消えた。
セミの声も、回し車の音も、エアコンのかすかな運転音さえも。
明かりはついているのに、世界から音だけを抜き取ったみたいに、急に、からん、と静まり返る。
息を吸う音すら遠い。
――間に合わなかった。
そう思った次の刹那。
バンッ!
強烈な音が、窓を叩いた。
今まで聞いていたものとは、まるで違う。
乾いた音じゃない。
迷いも間もない。
力任せに、外側からぶつけられた衝撃。
ガラスが大きく震え、カーテンが揺れ上がる。
床に座ったままの体に、衝撃が直接伝わってきて、思わず息が詰まる。
凛の手は、まだ重なったまま。
――以前と違う。
その強い音は、そこで終わらなかった。
バンッ。
バンッ、バンッ。
間を置かずに、音が重なる。
一方向じゃない。叩いている場所が、明らかに増えている。
バンバンバンバン。
同時に、複数。
リズムもなく、ためらいもなく、まるで部屋全体を囲むように。
窓ガラスが悲鳴みたいに震える。
その振動が床を伝って、体の奥にまで食い込んでくる。
私は思わず耳を塞ぎそうになるのに、腕が動かない。
その瞬間、
部屋の明かりが、ちらつく。
ぱっ、と消えかけて、またつく。
次の瞬間、さらに強く明滅する。
白。
暗。
白。
暗。
視界が追いつかず、目がくらむ。
バンバンバンッ!
音と光が、噛み合わない。
どちらが先だったのか、もう分からない。
「……っ」
声を出そうとして、喉が震えるだけだった。
凛を見る。
凛は、動いていなかった。
床に座ったまま、手の甲同士を合わせた姿勢のまま、固まっている。
声も出さない。
目も、窓を見ていない。
ただ、そこに置かれたみたいに動かない。
明かりがまた消えかける。
その一瞬の暗闇の中で、叩く音が、さらに近づいた気がした。
部屋を探っている。
そう気づいた瞬間、
次に鳴るのがどこか、考えてしまって――
その考えが終わる前に、
音と光が、同時に、はじけた。
叩く音が、変わる。
窓じゃない。
壁でもない。
――部屋の中だ。
床のすぐそば。
背後。
距離の感覚が、急に狂う。
「……ねえ」
必死に、凛に声をかける。
いつもみたいに、名前を呼ぶつもりだったのに、喉から出たのは掠れた音だけだった。
「……ねえ!」
返事がない。
音はまだ鳴っている。
バン、バン、バン。
今度は、部屋の中を移動しているみたいに、位置がずれる。
凛のほうを見る。
さっきから、動いていない。
恐怖と焦りで自然と声が荒くなる。
「……ねえってば!」
近づいて、顔を覗き込む。
凛は......笑っていた。
さっきまでと同じ、楽しそうな笑顔のまま。
口角が、ほんの少し上がったまま、固まっている。
でも——おかしい。
目が、合わない。
こちらを見ていない。
窓も、音のする方向も見ていない。
どこにも焦点が合っていなくて、空気の中を見ているみたいだった。
「……やめてよ……」
思わず手を伸ばし、凛の肩をつかんで思い切りゆする。
「……ねえ、しっかりして」
体は、ちゃんと動く。
揺らした分だけ、前後に揺れて、首もがくん、と不自然に振れる。
それなのに。
笑顔は、崩れない。
重ねられた手も、そのままだ。
力を入れるたび、その異様さがはっきりしてきて、思わず手を放してしまう。
指先が、びりっと痺れる。
息が荒い。
視線が勝手に、部屋の中を走る。
その瞬間、ようやく気づく。
——前とは、違う。
あのときは、暗闇の中だった。
見えなかった。だから、想像するしかなかった。
だけど今回は天井の明かりが、点いたり消えたりを繰り返している。
ぱっと白くなり、次の瞬間、影が濃くなる。
その明滅の一拍ごとに、見えてしまう。
私たちの周りを、取り囲むように——
複数の影。
壁に映る影じゃない。
誰も立っていないはずの場所に立っている影。
人の形をしているのに、輪郭は曖昧で、足元が床につながっていない。
影法師が、円を描くように私と凛を囲んでいる。
明かりが消えかける。
影が溶ける。
点く。
また、そこにいる。
数えようとして、やめる。
数が、はっきりしない。
重なった凛の手。
動かない笑顔。
そして、この影たち。
——声が聞こえる、って。
凛の言葉が、遅れて思い出される。
でも、今この部屋にあるのは、声より先に姿だった。
影法師たちが、揺れながら近づいてくる。
同時なのに、ばらばらで、遅れと先行が混じっている。
歩いているというより、床の上をにじるように距離を詰めてくる。
明かりが強まると影は薄くなり、
暗くなると、急に濃く、近くなる。
呼吸が浅くなる。
胸が苦しい。
影の数が多すぎて、どこを見ればいいのか分からない。
——来る。
理由も理屈もなく、それだけがはっきり分かる。
このまま重なったままでいたら、何が起きるか分からない。
そのとき、ふいに思う。
手だ。
重なったままの、凛の手。
ルール3。
「その手の甲同士を、合わせないこと」
もう合わせてしまったのなら——
離すしかない。
思い立った瞬間、体が先に動く。
私は、凛の重なった手に手を伸ばす。
触れた瞬間、ひやりとする。
冷たい。
人の体温じゃない。
それでも、指をかけて引きはがそうとする。
「……お願い……」
声にならない声で、つぶやく。
そのとき、影法師のひとつが、ぐっと近づいた。
床と影の境目が滲む。
もう、数歩もない。
力を込める。
指が、わずかにずれる。
——バンッ。
すぐ背後で、室内のどこかが叩かれた。
反射的に肩が跳ね、手元の力が緩む。
影が、さらに近づく。
輪が、確実に狭くなっている。
「……離れて……!」
必死に、もう一度、全身の力を込める。
今度は、逃げない。
明かりが、大きく明滅する。
白。
暗。
その一瞬の暗闇で、
影法師たちが一斉に踏み出した気配がして――
私は、凛の手にかけた力がわずかに動いた感触と、
背後から迫る何かの気配を、同時に感じた。
凛の手は、なかなか離れない。
硬い。
冷たい。
人の手の形をした、別のものみたいだった。
影法師が、さらに近づく。
揺れながら、囲む円を縮めてくる。
――バンッ。
――バンッ、バンッ。
床の振動が、膝に伝わる。
喉がひきつる。
息がうまく吸えない。
それでも、ここでやめたら終わりだ。
「……離れて……!」
全身の力を、腕に込める。
——ばり、と。
皮膚が擦れる感覚。
ずっと接していた面が、急にずれる。
ついに、凛の手が引きはがれた。
反動で、私は後ろによろける。
床に手をつき、荒い息を吐く。
その瞬間、重なっていた形が崩れ、
部屋の明滅が、ほんの一拍、遅れる。
影法師たちが、一斉に揺れた。
そして——
凛が、すとん、と崩れ落ちた。
糸が切れたみたいに、力なく床に座り込む。
その瞬間、すべてが止まる。
叩く音も、近づいていた気配も、消える。
部屋の明かりも、静かに安定する。
明るい部屋が、そこにある。
壁も、床も、天井も、いつも通りだ。
呆然として、周囲を見回す。
——影法師は、いない。
最初からいなかったみたいに、
何も残っていない。
部屋にあるのは、窓の外から聞こえるうるさいくらいのセミの声と、
リビングの隅で回り続ける、ハムカツの回し車の音。
現実の音だけが、確かに戻っている。
私は床に座ったまま、凛を見る。
笑顔は消えている。
ただ、眠っているみたいに目を閉じている。
……終わったの。
そう思おうとして、できない。
音は戻った。
光も戻った。
影も、いなくなった。
それでも胸の奥には、
触れてはいけないものに、確かに触れたという感覚だけが、
はっきりと残っていた。
セミは鳴き続け、
回し車は回り続ける。
何事もなかった夜みたいに。
でも私は、
二度と同じようには、この部屋を見られないと分かっていた。




