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第十話

床に崩れ落ちた凛に、私はすぐ駆け寄った。

膝をついて、肩に手を置く。

一瞬、指先が震えて、触れるのをためらいそうになる。

そっと、凛の口元に手を近づける。

 

……息をしている。

 

それが分かった瞬間、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。

でも、まだ足りない。

 

「凛……」

 

肩を揺する。

優しく、でも確かめるみたいに。

 

「凛、ねえ」

 

何度か呼びかけたあと、凛の眉がわずかに動いた。

目が、ゆっくり開く。

 

「あれ……」

 

焦点の合わない視線が、天井を泳いで、少しずつこちらに近づく。

 

「……私……」

 

そこまで言って、言葉が途切れる。

私は、もう我慢できなかった。

凛の体を抱き寄せる。

思いきり、腕に力を込める。

 

「……っ」

 

凛が小さく声を漏らす。

その感触が、生きている証拠みたいで、胸が一気に苦しくなる。

 

「……よかった……」

 

声が、震えて、嗚咽に変わる。

 

「ほんとに……よかった……」

 

凛の肩に顔を押しつけたまま、涙が止まらなくなる。

怖かったことも、張っていた気持ちも、全部、そこで崩れ落ちた。

 

部屋には、セミの声が響いている。

回し車の音も、同じ調子で続いている。

何事もなかったみたいな夜。

 

——それでも私には、もう同じ夜だとは思えなかった。


 ◇ 

 

「……何も、覚えてないの?」

 

そう聞くと、凛は少し考えるように視線を上に向けた。

 

「えっと……」

 

指先で床をとんと軽く触りながら、首をかしげる。

 

「配信見終わってさ、かえるちょっぷして……蝉の声、聞こえなくなったよね」

 

そこまでは、はっきり覚えているらしい。

 

「でも、それから先が、全然ないんだよね。気づいたら、ここで寝てた感じ」

 

まるで、途中で映像が途切れたみたいな言い方だった。

胸の奥が、きしりと鳴る。

 

「……体は? 本当に、どこも変じゃない?」

 

思わず、凛の腕や肩に目を走らせてしまう。

凛はその様子を見て、くすっと笑った。

 

「うーん……全然平気♪」

 

そう言って、両腕を軽く広げてみせる。

 

「痛いとこもないし、変な感じもしないよ。びっくりしたけどね」

 

その無邪気な声と仕草が、余計に胸にくる。


私は、また凛に抱きついてしまう。

ほとんど反射みたいに、前に踏み出して、凛の胸元に顔をうずめる。

服越しに、確かな体温が伝わってきて、それだけで胸がいっぱいになった。


「……よかった……」


声が震えて、言葉にならない。

息をしている。ここにいる。ちゃんと、生きている。


「……っ、ゆみ?」

 

戸惑う声が聞こえるのに、離れられない。

涙が、また勝手にあふれてくる。


凛は一瞬戸惑ったあと、そっと腕を回してきた。

ぎこちないけれど、力は弱くない。


「もう……」

 

声にならない嗚咽を飲み込んで、言葉を絞り出す。

 

「もう、かえるちょっぷ、やらないで……」

 

凛の背中に顔を埋めたまま、そう繰り返す。

しばらくして、凛は小さくうなずいた。

 

「……うん」

 

少しだけ、真面目な声だった。

 

「分かった。もう、やらない」

 

その返事を聞いても、胸の奥のざわつきは、完全には消えなかった。

凛の手が、そっと私の頭に触れる。

指先が、髪を撫でるみたいにゆっくり動く。

 

「……ほんとに、やらないから」

 

落ち着かせるような声だった。

子どもに言い聞かせるみたいに、やわらかくて、静かで。

 

「もう二度と」

 

少しだけ間を置いて、

 

「……ごめんね」

 

その一言で、胸の奥がまたきしっと鳴る。

怒りも、怖さも、全部混ざったまま、どう答えればいいのか分からない。

凛は私の頭を撫でたまま、しばらく何も言わない。

それから、思い出したように、いつもの調子に戻ろうとする。

 

「もう遅いしさ」

 

軽く笑って、

 

「寝よっか」

 

まるで、今日がただの楽しい夜だったみたいに。

配信を見て、ゲームをして、ちょっとびっくりすることがあっただけの夜みたいに。

私は、ゆっくりとうなずく。

凛の胸から顔を離しながら、その手の温度がまだ残っているのを感じていた。

もうやらない。

二度と。

その言葉を、疑いたくない気持ちと、

なぜか完全には信じきれない感覚が、胸の中で並んでいる。

セミは鳴き続け、

回し車は回り続けている。

何も起きなかった夜に戻ろうとするみたいに、

凛は立ち上がり、部屋の明かりを少しだけ落とした。

 

 ◇

 

寝室へ行き、電気を落とす。

凛のベッドは一人用にしては少し大きくて、並んで横になると距離は近かった。

布団の中は、昼間よりも静かだ。

凛の家の匂いと、シーツの乾いた感触。

互いの呼吸が、ゆっくり揃っていく。

やがて、意識が沈みかけた、そのとき。


——なにかが、動いた。

はっきりした音じゃない。

布が擦れる、かすかな気配。

私は目を覚ます。

暗闇の中で、視線だけを動かす。

凛が、起きていた。

上半身だけを起こし、ベッドの端に座っている。

こちらには背を向けたまま、窓のほうを見ていた。

カーテンの隙間から、夜の光が細く差し込んでいる。

凛の横顔は半分影に沈んでいて、表情はよく見えない。

 

「……凛?」

 

訝しむように、小さく声をかける。

返事はない。

凛は振り向かないまま、窓の外を見続けている。

その口が、わずかに動いているのに気づく。

声は聞こえない。

でも、なにかを呟いている。

独り言のつもりなのか、

それとも——誰かに向けてなのか。

私は布団の中で身動きできず、

凛の背中と、夜の窓から目を離せないまま、

その小さな呟きを、ただ聞こうとした。

じっと耳を澄ますと、はっきりしない音が、断片的に聞こえてくる。

 

「……えー……かむ……」

「……だ……だーみ……」

 

意味をなさない音。

でも、ただの寝言にしては、妙に区切りがはっきりしている。

凛は、まだ窓の外を見たまま、続ける。

 

「……ごう……」

「……せおう……」

 

その言葉を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走る。

――業

――背負う

 

「……凛……?」

 

声が、思ったより小さくなる。

返事はない。

凛は振り向かない。

口だけが、規則正しく、何かを反芻するように動いている。

 

「……えーかむ……」

「……ひとつ……」

 

怖くなる。

このまま聞いてはいけない気がする。

私は起き上がり、思わず凛の手をつかんだ。

冷たくはない。ちゃんと、人の体温がある。

 

「凛!」

 

強めに声をかける。


凛の体が、びくっと跳ねた。

 

「……っ」

 

その表情が一気に現実に引き戻される。

さっきまでどこか遠くを見ていた目が、はっきりとこちらを捉える。

 

「ごめん、ごめん」

 

凛は慌てたように言って、ばつが悪そうに笑った。

 

「なんか……寝ぼけてたみたい」

 

頭を軽くかいて、さっきまで何をしていたのかも曖昧そうだ。

その声は、いつもの凛のものだった。

私は、何も言えなかった。

えーかむ。

だだーみ。

業。

背負う。

さっき確かに聞いた言葉が、喉の奥に引っかかったまま、声にならない。

 

「……さ」

 

凛が、何事もなかったみたいに言う。

 

「もう遅いし、ねよっか」

 

そう言って、布団に潜り込む。ためらいも、不安も、見せないまま。

私は黙って横になる。

目を閉じても、すぐには眠れない。

暗闇の中で、さっきの凛の横顔を思い出す。

窓の外を見つめていた背中。

意味の分からない言葉を、繰り返していた口。

 

——本当に、寝ぼけていただけ?

 

胸の奥で、その考えがぐるぐると回り始める。

凛は、あのとき。

私たちには聞こえなかった“何か”を、本当は聞いていたんじゃないか。

セミの声が、途切れ途切れに聞こえる。

隣では、凛の寝息が、もう安定している。

それが、逆に怖かった。

目を閉じたまま、私は、自分が聞いてはいけない続きを

あの呟きの向こうに想像してしまっていることに、気づいていた。

眠りは、なかなかやってこなかった。 



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