第十一話
翌日の日曜日、私は凛の家に残ることにした。
凛の両親が帰ってくるまで、そばにいようと決めた。
特別な理由を口にしたわけじゃない。
「まだ一人にするの、ちょっとな」と言ったら、凛はいつも通りに笑って、「いいよ」と答えただけだった。
朝の光がリビングに入ってくる。
カーテン越しのやわらかい明るさで、昨日の夜のことが夢みたいに遠ざかる。
凛は、本当にいつも通りだった。
朝ごはんを食べながら、テレビを見て、くだらないことで笑う。
「昨日あんなことがあったのに、平気なんだね」と言うと、
「だってもう終わったし」と、軽い調子で返される。
その言い方が少しだけ引っかかった。
凛の左腕は、テーブルの上に何気なく置かれている。
ときどき無意識にさすっているけれど、凛自身は気づいていないみたいだった。
昼過ぎ、外で車の音がする。
門の開く音、鍵の音。
「おかえりなさい」
凛の声が、いつも通りに弾む。
凛の両親の声も、普段と何も変わらない。
それを聞いた瞬間、張りつめていたものが、ようやくほどける。
ここから先は、もう私の手を離れる時間だ。
「じゃあ、私、帰るね」
そう言うと、凛は少しだけ不満そうに、「もう?」と返す。
でもすぐに笑って、「また学校でね」と手を振った。
玄関を出て、外の空気を吸う。
日曜日の午後は、驚くほど普通だ。
振り返ると、凛はドアの向こうにいる。
明るくて、元気で、昨日と同じ。
——本当に、同じだろうか。
そう思いながら、私はその家から離れた。
◇
家に帰ると、部屋は静かだった。
休日なのに、外に出かけようという気にはなれない。
テレビをつけても音がただ流れていくだけで、画面の内容は頭に入ってこなかった。
昨夜のことを忘れようとする。
考えないようにすればするほど、凛が窓の外を見つめていた背中や、口の中で転がしていた言葉の断片が、頭の奥から浮かび上がってくる。
——えーかむ。
——だだーみ。
意味なんて分からないはずなのに、耳の奥に残って離れない。
それでも、私は自分に言い聞かせる。
凛は約束した。
もう、かえるちょっぷはやらないと。二度と、と。
あの時の凛が、軽い気持ちでそんな約束を破るとは思えない。
昨日の夜は、たまたま疲れていただけだ。
寝ぼけていただけ。
そう考えれば、筋は通る。
布団に寝転んで、天井を見つめる。
静かな午後。
窓の外では、遠くで子どもたちの声が聞こえる。
——これ以上、何も起きるはずがない。
胸の奥に残るざわつきを、そうやって押し込める。
もう終わった話だ。
心配しすぎだったのだと思うようにする。
凛は、今頃きっと、いつもの日曜日を過ごしている。
明るくて、元気で、何事もなかったみたいに。
そう信じることにして、私は目を閉じた。
少なくとも、この時点では、まだそう思うことができていた。
◇
次の日の朝、いつも通りに学校へ向かう。
校門をくぐると、朝のざわめきと、少し湿ったコンクリートの匂いが広がっていた。
昨日までのことが、急に遠くなった気がする。
教室に入ると、凛がもう席に着いている。
目が合って、向こうから手を上げた。
「おはよー」
「おはよー」
挨拶を交わしてから、少し間を置いて、私は言う。
「……体調は?」
凛はきょとんとしてから、すぐに笑った。
「もぉ、心配しすぎ」
少し大げさに肩をすくめて、
「どこのお母さんかと思ったんだけど」
軽い調子でそう返される。
その声も、表情も、いつもと同じだ。
「元気だよ。ほら」
そう言って、凛は軽く腕を振ってみせる。
冗談みたいな仕草に、胸の奥に溜まっていた力が、すっと抜ける。
……大丈夫だ。
やっぱり、考えすぎだったのかもしれない。
そう思いながら、席に座る。
授業が始まり、黒板に向き直る。
先生の声を聞きながらノートを取っていると、ふと視界の端で動くものがあった。
凛だ。
凛は、左腕をさすっている。
昨日までよりも、はっきり分かるくらい、何度も。
最初は気のせいだと思った。
でも、消しゴムを取るときも、ノートをめくる合間も、同じ場所を、指の腹でなぞっている。
……多い。
前よりも、明らかに。
凛自身は、授業に集中しているように見える。
顔色もおかしくないし、苦しそうな表情もしていない。
それなのに、その手の動きだけが、やけに規則的で目に引っかかる。
私はノートに目を戻す。
黒板の文字を書き写しながら、さっきの会話を思い出す。
『元気だよ』
その言葉は、嘘じゃなかったはずだ。
でも、左腕だけが、それを否定しているような気がしてならなかった。
チャイムの音が鳴る。
教室が一気にざわつく中で、凛はまた何気ない仕草で、左腕をさすっていた。
——やっぱり、何もなかったとは言い切れない。
そんな考えが、音もなく胸の奥に沈んでいった。
授業の途中、ふと視線を上げたときだった。
凛の左腕が、また動く。
半袖の袖口と手首の間がずれて、その一瞬、肌が見えた。
……あれ?
目が、そこで止まる。
白い腕の内側に、うっすらと色の違う痕がいくつか並んでいる。
赤黒いというほどでもないけれど、消えかけのあざのような丸みのある影が、不自然な間隔で残っていた。
私は思わず身を乗り出す。
「ねえ……凛」
声をひそめて呼ぶと、凛は顔だけこちらに向ける。
「左腕、本当に大丈夫なの?」
凛は自分の腕を見下ろして、ああ、と軽く声を出す。
「これ?」
袖を少し引いて確かめるみたいにしてから、なんでもない調子で言った。
「ちょっとかゆくてさ。虫に刺されたのかなって思ってた」
そう言って、笑う。
気にしていない様子で、また腕をさする。
「ほら、もうほとんど治りかけだし」
確かに、痛そうには見えない。
腫れてもいないし、凛はいつも通りだ。
……ほんとに、虫?
確認するようにもう一度言いかけて、やめる。
凛はもう黒板に視線を戻していて、こちらの不安など気づいていない。
左腕を、何度も、何度もさすりながら。
私はノートに目を落とす。
文字を書き写しながら、さっき見た形が、頭から離れない。
私は、凛の言葉を信じることができなかった。
あのあざは、虫刺されじゃない。
丸くて、浅くて、間隔が揃いすぎている。
まるで
――人の歯形だ。
そう思った瞬間、喉の奥がひやりと冷える。
そう確信してしまった自分の気持ちを、
どうやって言葉にすればいいのか分からないまま、
チャイムの音が、教室に響いた。




