表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/16

第十一話


翌日の日曜日、私は凛の家に残ることにした。

凛の両親が帰ってくるまで、そばにいようと決めた。

特別な理由を口にしたわけじゃない。

「まだ一人にするの、ちょっとな」と言ったら、凛はいつも通りに笑って、「いいよ」と答えただけだった。 

 

朝の光がリビングに入ってくる。

カーテン越しのやわらかい明るさで、昨日の夜のことが夢みたいに遠ざかる。

凛は、本当にいつも通りだった。

朝ごはんを食べながら、テレビを見て、くだらないことで笑う。

「昨日あんなことがあったのに、平気なんだね」と言うと、

「だってもう終わったし」と、軽い調子で返される。

その言い方が少しだけ引っかかった。

凛の左腕は、テーブルの上に何気なく置かれている。

ときどき無意識にさすっているけれど、凛自身は気づいていないみたいだった。

 

昼過ぎ、外で車の音がする。

門の開く音、鍵の音。

 

「おかえりなさい」

 

凛の声が、いつも通りに弾む。

凛の両親の声も、普段と何も変わらない。

それを聞いた瞬間、張りつめていたものが、ようやくほどける。

ここから先は、もう私の手を離れる時間だ。

 

「じゃあ、私、帰るね」

 

そう言うと、凛は少しだけ不満そうに、「もう?」と返す。

でもすぐに笑って、「また学校でね」と手を振った。

玄関を出て、外の空気を吸う。

日曜日の午後は、驚くほど普通だ。

振り返ると、凛はドアの向こうにいる。

明るくて、元気で、昨日と同じ。

——本当に、同じだろうか。

そう思いながら、私はその家から離れた。


 ◇


家に帰ると、部屋は静かだった。

休日なのに、外に出かけようという気にはなれない。

テレビをつけても音がただ流れていくだけで、画面の内容は頭に入ってこなかった。

昨夜のことを忘れようとする。

考えないようにすればするほど、凛が窓の外を見つめていた背中や、口の中で転がしていた言葉の断片が、頭の奥から浮かび上がってくる。

 

——えーかむ。

——だだーみ。

 

意味なんて分からないはずなのに、耳の奥に残って離れない。

それでも、私は自分に言い聞かせる。

凛は約束した。

もう、かえるちょっぷはやらないと。二度と、と。

あの時の凛が、軽い気持ちでそんな約束を破るとは思えない。

昨日の夜は、たまたま疲れていただけだ。

寝ぼけていただけ。

そう考えれば、筋は通る。

 

布団に寝転んで、天井を見つめる。

静かな午後。

窓の外では、遠くで子どもたちの声が聞こえる。

 

——これ以上、何も起きるはずがない。

 

胸の奥に残るざわつきを、そうやって押し込める。

もう終わった話だ。

心配しすぎだったのだと思うようにする。

凛は、今頃きっと、いつもの日曜日を過ごしている。

明るくて、元気で、何事もなかったみたいに。

そう信じることにして、私は目を閉じた。

少なくとも、この時点では、まだそう思うことができていた。


 ◇


次の日の朝、いつも通りに学校へ向かう。

校門をくぐると、朝のざわめきと、少し湿ったコンクリートの匂いが広がっていた。

昨日までのことが、急に遠くなった気がする。

教室に入ると、凛がもう席に着いている。

目が合って、向こうから手を上げた。

 

「おはよー」

「おはよー」

 

挨拶を交わしてから、少し間を置いて、私は言う。

 

「……体調は?」

 

凛はきょとんとしてから、すぐに笑った。

 

「もぉ、心配しすぎ」

 

少し大げさに肩をすくめて、

 

「どこのお母さんかと思ったんだけど」

 

軽い調子でそう返される。

その声も、表情も、いつもと同じだ。

 

「元気だよ。ほら」

 

そう言って、凛は軽く腕を振ってみせる。

冗談みたいな仕草に、胸の奥に溜まっていた力が、すっと抜ける。

 

……大丈夫だ。

 

やっぱり、考えすぎだったのかもしれない。

そう思いながら、席に座る。

 

授業が始まり、黒板に向き直る。

先生の声を聞きながらノートを取っていると、ふと視界の端で動くものがあった。

凛だ。

凛は、左腕をさすっている。

昨日までよりも、はっきり分かるくらい、何度も。

最初は気のせいだと思った。

でも、消しゴムを取るときも、ノートをめくる合間も、同じ場所を、指の腹でなぞっている。

……多い。

前よりも、明らかに。

凛自身は、授業に集中しているように見える。

顔色もおかしくないし、苦しそうな表情もしていない。

それなのに、その手の動きだけが、やけに規則的で目に引っかかる。

私はノートに目を戻す。

黒板の文字を書き写しながら、さっきの会話を思い出す。

 

『元気だよ』

 

その言葉は、嘘じゃなかったはずだ。

でも、左腕だけが、それを否定しているような気がしてならなかった。

チャイムの音が鳴る。

教室が一気にざわつく中で、凛はまた何気ない仕草で、左腕をさすっていた。

——やっぱり、何もなかったとは言い切れない。

そんな考えが、音もなく胸の奥に沈んでいった。


授業の途中、ふと視線を上げたときだった。

凛の左腕が、また動く。

半袖の袖口と手首の間がずれて、その一瞬、肌が見えた。

 

……あれ?

 

目が、そこで止まる。

白い腕の内側に、うっすらと色の違う痕がいくつか並んでいる。

赤黒いというほどでもないけれど、消えかけのあざのような丸みのある影が、不自然な間隔で残っていた。

私は思わず身を乗り出す。

 

「ねえ……凛」

 

声をひそめて呼ぶと、凛は顔だけこちらに向ける。

 

「左腕、本当に大丈夫なの?」

 

凛は自分の腕を見下ろして、ああ、と軽く声を出す。

 

「これ?」

 

袖を少し引いて確かめるみたいにしてから、なんでもない調子で言った。

 

「ちょっとかゆくてさ。虫に刺されたのかなって思ってた」

 

そう言って、笑う。

気にしていない様子で、また腕をさする。

 

「ほら、もうほとんど治りかけだし」

 

確かに、痛そうには見えない。

腫れてもいないし、凛はいつも通りだ。

……ほんとに、虫?

確認するようにもう一度言いかけて、やめる。


凛はもう黒板に視線を戻していて、こちらの不安など気づいていない。

左腕を、何度も、何度もさすりながら。

私はノートに目を落とす。

文字を書き写しながら、さっき見た形が、頭から離れない。


私は、凛の言葉を信じることができなかった。


あのあざは、虫刺されじゃない。

丸くて、浅くて、間隔が揃いすぎている。

まるで

 

――人の歯形だ。

 

そう思った瞬間、喉の奥がひやりと冷える。

そう確信してしまった自分の気持ちを、

どうやって言葉にすればいいのか分からないまま、

チャイムの音が、教室に響いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ