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第八話

さっきまで、確かにそこにあった気配が、一気に消えている。

音だけじゃない。空気ごと抜け落ちたみたいで、部屋が妙に広く感じられた。

 

「やっぱこれ、すごくない?」

 

凛が、少し得意そうに言う。

静まり返った部屋で、その声だけが浮く。

 

「……やめてよ」

 

ようやく声が出た。

思っていたよりずっと小さくて、震えているのが自分でも分かる。

 

「もうやらないって、約束したじゃん」

 

必死にそう言うと、凛はきょとんとした顔をして、首をかしげた。

 

「え? でもさ」

 

軽い調子のまま、続ける。

 

「これは一個目の方だよ」

 

その言葉が、遅れて意味を持つ。


一個目。

——夜中にやらないこと。


セミの声は戻らない。

ハムカツの回し車も、沈黙したまま。

静かな部屋で、友人の左腕だけが、さっきより強く無意識にさすられているのをどうしても見てしまっていた。


「そういう問題じゃないって」

 

思わず、一歩近づいていた。

静まり返った部屋の中で、その一歩分の距離がやけに重い。

凛は、ほんの少しだけ笑う。

 

「大丈夫だって」

「何も起きてないし」

 

軽く肩をすくめて、安心させるみたいな口調で言う。

 

「それに、ほら」

 

その視線の先で、ケージの中のハムカツが、ぴくりと動く。

次の瞬間、回し車がカラカラと回り出す。

——戻った。

同時に、窓の外から、遅れてセミの鳴き声が聞こえ始める。

一匹、二匹じゃない。さっきまでと同じ、うるさいくらいの音。

部屋に、音が満ちていく。

さっきまで空っぽだったところに、無理やり現実が流し込まれるみたいに。

 

「ね?」

 

凛が笑う。

その笑顔は、さっきまでと何も変わらない。

楽しそうで、無邪気で悪意なんて欠片もない。

それが一番怖かった。

戻った音の中で、自分の心臓だけが、まだ少し遅れて打っている。

静かになった瞬間の感覚が、消えきらずに胸の奥に残っていた。

——本当に、何も起きていなかったのか。

それとも、起きたものが、ちゃんとかえされただけなのか。

その答えを口にできないまま、

セミの声にかき消されるように、ただ息を整えるしかなかった。


「……ね、お願い」

 

その言い方が、さっきまでと違った。

楽しそうでも、ふざけてもいない。少しだけ、様子をうかがうみたいな声。

 

「……何を」

 

そう聞き返したけれど、答えはもう分かっている。

分かっているから、喉の奥が詰まる。

 

「……確かめてみない?」

 

静かに言われて、言葉が出なくなる。

配信の余韻も、セミの声もあるのに、そこだけ音が抜けたみたいに感じた。

黙ったままの私を見て、友人が続ける。

 

「ルール2は、約束どおり破らないからさ」

 

その言葉で、逆にはっきりしてしまう。

避けてきたのは、もう一つのほうだって。

 

「それに……」

 

少しだけ間が空く。

 

「ルール3……分からないままのほうが、気持ち悪くない?」

 

胸の奥が、きゅっと縮む。

分からないまま。確かに、それはずっと引っかかっていた。

 

「さすがの私でもさ……」

 

凛の声が、少し低くなる。

 

「一人だと……ちょっと、怖くって」

 

その一言が、ずるいと思った。

さっきまで平気そうにやっていたのに、急にそんな顔をするなんて。

 

「だからさ……」

 

視線が、ほんの一瞬だけ私に重なる。

 

「一緒に、お願い」

 

否定の言葉が、喉まで来ていたはずなのに、出てこない。

音は戻ってきている。セミも、回し車も、全部ちゃんとある。

ここは明るい部屋で、二人きりなだけで。

 

「二人なら、大丈夫でしょ」

 

凛のその言葉に、根拠はない。

でも、ここまで一緒に来てしまっている、という事実だけが押してくる。

 

「……怖くなったら、やめればいいし」

 

軽く言ったつもりなのが伝わって、余計に迷う。

 

「ね、お願い」

 

最後に、もう一度。

私は、うなずかなかった。

「いいよ」とも言っていない。

ただ、視線を落として、何も言わなかった。

その沈黙を、凛は肯定だと受け取ったみたいだった。

小さく、ほっとしたように息をつく。


――形だけの了承。

そうだ、これはちゃんとした同意じゃない。

それなのに、もう一歩、戻れないところに足を置いてしまった気がして、

胸の奥に、嫌な静けさが残ったままだった。




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