第七話
それからの数日間は、拍子抜けするほど何も起こらなかった。
朝はいつも通りに学校へ行き、教室に入ると、あの匂いと騒がしさが迎えてくれる。
椅子を引く音、誰かの笑い声、窓の外で鳴る風の音。
授業が始まれば、黒板を見てノートを取り、先生の声を聞き流しながら時間をやり過ごす。
休み時間には、くだらない話をして笑った。
テレビの話、テストの愚痴、給食のデザートの話。
あの出来事に触れることは、誰もしなかった。
自分からも、聞かなかった。
聞いてしまえば、また繋がってしまいそうで。
教室にはちゃんと音があった。
夜に消えてしまったものたちは、ここには最初から存在しなかったみたいに、当たり前に戻っている。
——やっぱり、気のせいだったのかもしれない。
そう思おうとすれば、思える。
少なくとも、昼の学校では。
ただひとつだけ、どうしても目についてしまうことがあった。
凛が、時々、左腕をさすっている。
会話の途中で。
考え込むみたいに、ふと。
無意識なのか、同じ場所を、指の腹で何度もなぞる。
痛そうではないし、気にしている様子もない。
聞けば笑って「なんでもないよ」と言う程度のこと。
それでも、その仕草だけが、前の席で、時々、視界に引っかかる。
忘れかけていた夜の感触が、そのたびに、かすかによみがえる。
でも、深く考えないようにした。
今は普通でいられる。それでいい。
そして、気づけば週末が来ていた。
◇
週末になり、指定された時間に凛の家を訪ねる。
インターホンを押すと、すぐに足音がして、ドアが開いた。
「いらっしゃーい」
凛が、いつもの調子で笑う。
少し気が抜けて、靴を脱ぎながら「おじゃまします」と返した。
そのままリビングに通される。
明るくて、生活感のある部屋。
テレビ台の横、いつもの場所にケージがあって、中で小さく動くハムスターが見える。
「あ、ハムカツ」
ケージに近づいて、しゃがむ。
回し車を止めて、こちらを見上げる丸い目。
「久しぶりー。覚えてる?」
もちろん返事はないけれど、鼻をひくひくさせて、ケージの中を動き回る。
その様子を見て、ふっと力が抜ける。
リビングを見回してから、ふと思い出して聞いた。
「あれ、ご両親は?」
凛は、気にするでもなく答える。
「今日は出かけてるよ。二人で旅行だってさ」
「そっか」
少し間を置いて、「じゃあ、気楽だね」と言うと、
「でしょ」
凛は振り返り、えへへと笑った。
家の中は静かで、変な気配もない。
ハムカツは回し車に戻り、カラカラと音を立て始める。
——ただの、楽しい週末の始まり。
その時は、そう思っていた。
◇
夕方になり、二人で近くのコンビニに行って買ってきたものをリビングのテーブルに広げる。
おにぎりに、からあげ、甘いお菓子とジュース。
テレビはとりあえずつけっぱなしで、内容にはあまり注意を向けないまま、適当に座る。
「それ取って」
「はいはい」
どうでもいいやり取りをしながら食べる。
口に物が入ったまましゃべって、変な声になって笑って。
リビングには、普通に、笑い声が響いていた。
そのあと、順番にお風呂に入る。
脱衣所にこもる湯気の匂い。浴室に響くシャワーの音。
出てくれば、ドライヤーの風と、ぶおーっという音が続く。
それも全部、知っている感じ。
特別なことは、何もない。
パジャマに着替えて、次はゲームを始める。
凛がコントローラーをこちらに放ってよこしてきた。
「はい、対戦ね」
画面が切り替わって、操作を確認する前に、もう動いている。
「弱っ」
「うるさいし」
言い返して、必死にボタンを押す。負ければ文句を言い、勝てば自慢する。
コントローラーが手汗で少し滑るのも気にせず、何度もリトライする。
部屋には、電子音と、軽口と、笑い声。
全部が、ごく普通で、楽しい。
——左腕のことを考えなければ、
本当に、ただの楽しい夜だった。
夜になり、凛が時計をちらりと見て言う。
「そろそろ始まるよ」
その声に合わせて、二人とも自然とテレビの前に座り直す。
リモコンを操作して、配信画面を開く。
画面が切り替わり、しばらくして five missile のロゴが大きく映し出された。
「きた」
それだけで、ちょっとテンションが上がる。
コメント欄はもう流れ始めていて、文字が次々と画面を埋めていく。
配信が始まり、メンバーが登場するたびに、
「この衣装やばくない?」
「それな、絶対今回神回」
同時に口から出る。
推しがアップで映ると、思わず声が大きくなる。
「今の表情!」
「待って、かわいすぎ」
コメント欄を追いながら、画面と行ったり来たりで視線が忙しい。
知らない人たちの書き込みなのに、同じ気持ちだと分かって、ちょっと嬉しくなる。
リビングには、配信の音声と、二人の声が重なっている。
笑って、驚いて、また笑って。
怖いことも、不安なことも、この時間だけはどこかに追いやられて、
ただ「楽しい」だけが、はっきりとそこにあった。
ふと、横を見る。
凛は、画面を見つめたまま笑っている。
配信の流れについていけなくなるくらい、楽しそうで、肩が少し揺れている。
――なのに。
その手は、また左腕をさすっていた。
指の腹で、同じ場所を。
画面から目を離さないまま、無意識に、何度も。
気づいた瞬間、胸の奥がひくりとする。
さっきまで五人の動きに合わせて弾んでいた気持ちが、ほんの少しだけ冷える。
……見なかったふりをする。
自分も、無意識に目を逸らす。
凛の手から、配信の画面へ。
画面の中では、メンバーが笑っていて、コメント欄も相変わらず流れ続けている。
歓声みたいな声がスピーカーから響き、現実の音に重なる。
意識を、そっちに戻す。
今は楽しい時間だ。そう思う。
部屋の明かりは明るい。
テレビの光も、リビングの空気も、まだ軽い。
怖い気配なんて、どこにもない。
——少なくとも、今は。
左腕の動きを思い出さないように、
画面の中の笑い声に、もう一度、意識を預けた。
やがて、配信が終わりをむかえる。
エンディングの音楽がフェードアウトして、画面が暗くなる。
その瞬間、部屋に一瞬の静寂が落ちた。
今まで埋め尽くしていた音が消えると、残っていた音が急に浮かび上がる。
リビングの隅から聞こえる、ハムカツの回し車を回すカラカラという音。
そして、窓の外から押し寄せる、うるさいくらいのセミの声。
「あー、楽しかった」
凛は伸びをしながら、そう言って立ち上がる。
その動きはあまりに自然で、さっきまでの続きを片付けるみたいな軽さだった。
「よし」
何でもないことのように、凛は右手の形をつくる。
曲げた薬指に親指を重ね、残りの三本指を立てた。
あまりにさりげなくて、一瞬、意味を理解するのが遅れる。
かえるちょっぷ。
ぱしっ、と、乾いた音。
——その瞬間。
窓の外のセミの声が、途切れる。
同時に、ハムカツの回し車の音も、ぴたりと止んだ。
静かすぎる。
テレビは消えている。人の声もない。
さっきまで当たり前だった音だけが、部屋からまとめて消えている。
凛は、何事もなかったみたいな顔でこちらを振り向く。
「……ほら」
その声だけが、やけに大きく響いた。
心臓が、遅れて強く打つ。
静かになった部屋の中で、自分の呼吸音だけが、はっきりと聞こえていた。




