第六話
次の日の朝、教室の扉を開けた瞬間、空気が一気に流れ込んでくる。
いつもの匂い。
少し埃っぽくて、消しゴムと床用ワックスが混じったようなにおい。
笑い声がいくつも重なり、椅子を引く音がきい、と響く。窓の外では、風がカーテンを揺らしている。
——全部、ちゃんとある。
胸の奥で、昨日の夜に欠けていたものたちが、まとめて戻ってきた気がする。
「……おはよ」
いつもと同じつもりで声を出す。
それなのに、その一言だけが、教室の中に浮かんで聞こえた。
音としてはあるのに、どこにも混ざらない。軽く、輪郭だけ残って、宙に止まる。
一瞬、居心地の悪さに肩がこわばる。
「おはよー」
前の席の凛が振り向いて、手を軽く上げる。
声は明るくて、いつも通りで、それを聞いた途端に、教室の音がちゃんと戻ってくる。
安心したような、してはいけないような気持ちを抱えたまま、席に向かう。
窓の外の風の音を、もう一度だけ確かめるように聞きながら。
「……ちょっといい?」
そう声をかけると、凛は一瞬きょとんとしてから、「いいよ」と答えた。
二人で教室を出て、人の少ない廊下に立つ。
チャイム前の時間帯で、遠くの教室から声は聞こえてくるけれど、このあたりは妙に静かだった。
窓の外は明るい。
朝の光が校庭を照らして、体育倉庫も鉄棒も、やけに現実的に見える。
昨日の夜の暗さが、嘘だったみたいに。
「どうしたの?」
凛は軽い調子で言う。
昨日と同じ口調、同じ距離感。
そのはずなのに、視線がふと、あるところで止まる。
凛の左腕。
話しながら、無意識みたいに、そこをさすっている。
「……ねえ」
声をかけようとして、言葉が詰まる。
何から聞けばいいのか分からない。
夢だったはずの夜と、今の朝が、うまくつながらない。
友人はまだ左腕をさすりながら、首を傾げてこちらを見る。
「なに?」
窓の外の明るさとは逆に、胸の奥で、小さな不安がまた静かに動き出していた。
廊下の窓際に立ったまま、昨夜のことを一気に話す。
布団の中で起きた音のこと。
静かになった夜のこと。
見えない何かが探るみたいに近づいてきたこと。
言葉にするたび、あの冷たい感触が、腕の奥でよみがえる。
話し終えると、凛は一瞬黙り込んだあと、ぱっと顔を明るくした。
「え、私も同じ!」
声を潜めるどころか、興奮を抑えきれない様子で言う。
「すごかったよね。音、鳴ったでしょ? 私のとこもさ——」
その続きを聞く前に、胸の奥がひゅっと縮む。
重なった。偶然じゃない。
それが分かった瞬間、怖さが一気に現実味を帯びる。
「……やだ」
思わず、きつい声が出る。
「もう、やめたい。あれ、遊びじゃないよ」
自分でも分かるくらい、語気が荒くなる。
「昨日、本当に怖かった。もうやらないで」
友人は驚いたように目を見開き、それから少し顔を曇らせた。
左腕をさすっていた手が、そこで止まる。
「ご、ごめん……」
さっきまでの勢いが、一気に引いていく。
「そんなに怖かったって思ってなくて。調子に乗ってた」
軽く頭を下げて、視線を落とす。
「もう言わない。ほんとにごめん」
廊下に、朝の静けさが戻る。
窓の外は相変わらず明るくて、何事もなかったみたいなのに、胸の奥だけが、まだざわざわしている。
「……約束だからね」
そう言うと、凛は小さくうなずいた。
その仕草を見て、少しだけ息を吐く。
でも、左腕の奥に残る、あの冷たい感覚だけは、
まだ完全には消えてくれなかった。
「……心配なんだよ」
自分でも驚くくらい、正直な声が出た。
怒りというより、抑えていたものがそのまま形になったみたいな言い方だった。
凛は一瞬きょとんとしてから、困ったように眉を下げる。
「もう……機嫌なおしてよ」
そう言って、少し間を置き、思いついたみたいに顔を上げる。
「ね、今度さ、うちに泊まりで遊びにおいで」
「泊まり?」と聞き返すと、凛はうんうんとうなずく。
「二人で five missile の配信、一緒に見よ? 今週のやつさ」
その名前を聞いた瞬間、胸の緊張が少しだけゆるむ。
五人組のアイドルグループ。
二人でよく振り付けを真似したり、誰推しだなんだって言い合ったりしてきた、いつもの話題。
「新衣装のやつだよ。絶対語りたいじゃん」
凛はそう言って、さっきまでとは違う、見慣れた笑顔を向けてくる。
……あの夜の話とは、あまりにも遠い提案。
でも、それが現実の側にちゃんとつながっていることが、逆に少し安心できた。
「……考えとく」
そう答えると、友人は「ほんと?」と嬉しそうに声を弾ませる。
廊下の向こうから、教室のざわめきが聞こえてくる。
five missileの話をしている間だけ、左腕の奥の冷たさを、少し忘れてしまっている自分に気づきながら、
それでも今は、その現実感にすがりたいと思っていた。
ふと、視線が外れる。
話している途中だったのに、どうしても気になってしまった。
凛は、また左腕をさすっている。
さっき廊下に出たときと同じ場所を、同じ指の動きで。
「……そこ、どうしたの」
自分でも、声が少し硬くなったのが分かる。
凛は一瞬、手を止めた。
「あ、これ?」
そう言って、照れたみたいに笑う。
「なんでもないよ」
軽く肩をすくめて、そのまま腕を下ろす。
その表情は、さっき five missile の話をしていたときと同じ、明るいものだった。
……でも。
数秒もしないうちに、また無意識みたいに、同じ場所をなぞり始める。
爪じゃなくて、指の腹で、確かめるように。
指摘されたことを、もう忘れてしまったみたいに。
胸の奥が、ひっそりと冷える。
昨日の夜、触れられた気配。
今朝のペン立て。
そして、今この仕草。
廊下の向こうでは、誰かが笑っている。
窓の外は明るくて、風もちゃんとある。
それなのに、その左腕だけが、
まだ、何かを覚えているみたいに見えてしまって——
何も言えないまま、その指の動きを目で追ってしまう自分がいた。




