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第五話

夜になって、布団に入る。

体は一日分の疲れをきちんと抱えているはずなのに、頭だけが冴えていてなかなか眠くならない。

目を閉じると、昼間の教室がそのまま浮かんでくる。

凛の声、からかうような笑い方、「今夜やってみてよ」という言葉。

どれももう終わったことのはずなのに、夢の残りみたいに頭の奥に引っかかって離れない。

寝返りを打つ。

布団が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。

そのとき、窓の外から音が流れ込んでくる。

カエルの声だ。

一匹や二匹じゃない。重なり合ってリズムもなくうるさいくらいに鳴いている。

さっきまで昼だったことなんて忘れてしまいそうなほど、夜を主張する声だ。

昨日はこの声が急に途切れた。

そのことを思い出した瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。

馬鹿馬鹿しい、ともう一度自分に言い聞かせる。

でも、耳は自然とその声の数を数えるみたいに、外の音に集中してしまう。

うるさいくらいなのに、

なぜかそのうるささが、いつ止まるか分からないものみたいに感じられて、目が冴えたまま闇の中でじっと天井を見つめていた。


布団の中で、目を閉じたまま昼間のやりとりがよみがえる。

 

――すごいことが起こったんだよ。

――大丈夫だよ、ちゃんとやれば。

 

凛の声は、興奮気味でどこか確信めいていた。

あの言い方は、からかいだけじゃなかった気がする。

無事だった。

少なくとも今こうして普通に学校に来て笑っていた。

ゆっくりと右手を胸の前に持ち上げて、暗がりの中で形を確認する。

薬指を曲げて、親指で押さえる。

残りの三本を立てる。

 

……ルール二。

手を返してやるのは禁止。

手の甲側で叩いたら、叩かれる。誰にかは分からない。

 

手のひらを自分に向けたまま、じっと見つめる。

昨日は、手の甲は返さなかった。

今日は……どうする?

窓の外では、相変わらずカエルが鳴いている。

うるさいくらいで、止まる気配はない。

その音を聞きながら、胸の奥で、迷いと好奇心がゆっくりとせめぎ合う。

 

――やってみようかな。

 

そんな考えが、いつのまにか自然に浮かんでいる。

馬鹿だと思う。でも、確かめたい。

この音が、どうなるのか。

この手が、何に触れるのか。

布団の中で、左腕をそっと持ち上げながら、心臓の音を数える。

外はまだ、うるさい夜だった。


布団の中で、ゆっくりと手首を返す。

昨日思い出したとおりの向き。これが、返してはいけない動き。

右手の形をつくり、ためらいを押しのけて左腕に向けて動かす。

 

ぱしっ。

 

指が当たる感触は軽く、昨日と同じだと思った。

そして、ほとんど同時に、窓の外のカエルの声が一斉に途切れる。


……やっぱりだ。

そう思った、その直後だった。

 

ぱしん。

 

音が重なる。

でも違う。さっきよりも、少し遠い。

一瞬、何が起きたのか分からず、呼吸が止まる。

音は、左腕でも、右手でもない。

布団の中でもない。

……部屋の、どこか。

思わず体を起こす。

布団がずれる音が、やけに大きく響く。

目を凝らすが、月明かりに照らされた部屋は、いつもと変わらない。

机も、本棚も、カーテンも動いていない。

それでも、あの音は確かにあった。

手を動かしていないのに鳴った、距離のある音。

左腕に、遅れて感触が走る。

昼間よりも、昨日よりも濃い。冷たくて、重い。

叩かれた、というより、触れられた記憶だけが置いていかれたみたいな感覚。

ゆっくりと右手を見る。

指は、さっきの形のままだ。動かしていない。

 

——今の音は、私じゃない。

 

そう理解した瞬間、部屋の静けさが、ただの無音じゃなくなる。

音がないのではなく、音を立てるものが消えたあとの空気。

どこかで、もう一度鳴るんじゃないか。

そんな気配だけが、部屋の中に溶け込んでいて——

心臓の音だけが、やけに現実的に、胸の奥で鳴り続けていた。

 

――ぱしん。

 

もう一度、音が鳴る。

今度は、はっきりと聞こえた。

反射的に、そちらを見る。

音のした方向は――窓。

暗闇の中で、カーテンがゆっくりと揺れている。

さっきよりも、はっきり分かるくらいに。

息を止めて、耳を澄ます。

外は、完全に静まり返っている。カエルの声も、風の音もない。

窓ガラスが鳴る気配もない。

風は、……ない。

それでも、カーテンは揺れている。

誰かが触れたみたいに、一度だけ、遅れて戻るように。

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

冷たい何かが、左腕から肩のほうへと、ゆっくり這い上がってくる。

さっきの音も、今の揺れも、

自分が動かしたわけじゃない。


——返してきた。

 

ふいに、昼間の友人の言葉が頭をよぎる。

 

「こっち側でたたくと、叩かれる」

 

誰に、とは言っていなかった。

部屋の中で、自分の存在だけが浮いているような感じがする。

音のない世界で、何かだけが、きちんと位置を持っている。

もう一度、ぱしん、と鳴る気がして、

思わず両手を胸の前に引き寄せる。

カーテンは、ゆっくりと静止した。

思わず、言葉がこぼれる。


「……誰」

 

自分の声は、部屋の暗さにすぐ吸い込まれてしまう。

返事は、ない。

その直後、窓のほうからまた音がする。

 

ぱしん。

ぱしん。

 

一定の間隔。迷いのないリズム。

偶然じゃない。叩いているとしか思えない音。

視線を外すことができない。

暗闇に溶け込んだカーテンの向こう、何も見えないはずの窓を、ただ凝視する。

 

ぱしん。

ぱしん。

 

音が続くたび、胸の奥が縮む。自分の心臓の鼓動と、重なりそうになる。

そして――

 

バンッ。

 

今までとは明らかに違う音。

乾いた音じゃない。空気を押しつぶすような、重くて乱暴な一撃。

ガラスが震え、カーテンが大きく揺れる。

思わず息をのむ。肩が強張り、体が動かない。

風は、ない。

それなのに、揺れはゆっくり収まらず、闇の中で余韻のように残る。

左腕に、あの感触が走る。

冷たくて、濃くて、逃げ場のない感覚。昼間の比じゃない。

まるで、ここに来てから本気になったみたいに。

返してはいけない。

そのルールが、今になって、重く胸に落ちる。

窓の向こうの暗闇が、こちらを意識している気がする。

次の音が、また窓なのか、それとも――

考えた瞬間、背中を冷たいものが伝い、

部屋の空気が、一段階だけ、深く沈んだ気がした。


思わず、視線を走らせる。

壁、窓、床、机——どこを見ても、誰もいない。

影が増えたわけでも、形が浮かんだわけでもない。

ただ、部屋はさっきと同じままだ。

……なのに。

バン、という音が、床のほうからする。

間を置いて、ドン、と壁。

さらに、かすかに、机の脚のあたり。

音が、増えている。

一定じゃない。叩く場所も、強さもばらばらだ。

まるで、暗闇の中で、見えない手が手探りをしているみたいに。

ここに何があるのか、確かめるように。

音が動くたび、体が硬直する。

どこを次に触れるのか分からない。

次に鳴る場所を考えてしまうたびに、心臓が嫌な鳴り方をする。

 

「……やめて」

 

気づいたら、声がこぼれていた。

お願いというより、反射だった。

返事はない。

代わりに、バン、という音が机の上から聞こえる。

次の瞬間——

 

がしゃん。

 

机の上のペン立てが、突然ひっくり返る。

ペンが床に散らばり、転がる音が遅れて広がる。

触れたものが、はっきりとした結果になった。

息が詰まる。

何も見えないのに、そこに「探している何か」がいるのが、もう否定できない。

ぱしん、という音が、今度はすぐ近くで鳴った。

左腕が、まるで合図みたいに、冷たく疼く。


——探している。

――何かを。

――いや、ひょっとして何かではなく


動けないまま、散らばったペンの先を見つめていると、次にどこが鳴るのか、考えたくもないのに考えてしまう。

そして、それが——

自分じゃない場所だと、どうしても言い切れなくなっていく。


――コツ。

 

音は、すぐ上だった。

天井。自分の真上。

考えるより先に、体が動く。

一気に布団に潜り込み、頭まで深くかぶる。

視界は闇に閉ざされ、布の内側にこもった自分の息づかいだけが残る。

外の音は、もうない。

窓も、壁も、天井も、静まり返っているはずなのに——

 

どくん、どくん。

 

自分の心臓の音が、やけにうるさい。

耳の内側で叩かれているみたいで、布団越しでも誤魔化せない。

部屋の広さや位置関係が、少しずつ遠のいていく。

まるで、自分だけが布の中に切り離されたみたいな感覚。

そのとき。


——トン。

 

音ではなく、感触だった。

ベッドの端。足元のほう。

何かが、確かに、叩いた。

一度きりじゃない。

位置も、重さも、はっきり分かる。

「そこ」に触れた、という感じ。

息を止める。

布団の中は暗くて、何も見えない。

それでも、自分のいる場所だけが、ひどく具体的に浮かび上がってくる。

返してはいけない。

返してやるのは禁止。

昼間の言葉が、遅れて意味を持つ。

探していたものが、今——見つけた気がして。

布団の外で、もう一度、同じ場所が叩かれる気配がして、

自分の心臓の音だけが、逃げ場もなく、胸の奥で鳴り続けていた。


叩く位置が、少しずつずれていく。

最初はベッドの端。

それが、ほんの少し内側に。

また少し、布団の縁に近づいてくる。

一定じゃない。リズムもない。

まるで、形のない何かが、手探りで確かめながら近づいてくるみたいに。

 

「……っ、あ……」

 

声を出そうとしても、喉がひっかかる。息はしているのに、音にならない。

喉の奥がこわばって、舌がうまく動かない。

 

トン。

トン。

 

今度は、はっきりと布団の上。

足元のあたりで、布越しに伝わる重さ。柔らかいはずの布団が、そこだけ固く感じる。

逃げようにも、体が動かない。

目を閉じているのに、どこを叩かれているのかだけが、妙に正確に分かる。

そして——

 

トン。

 

自分の上。

胸の近くで、確かに、触れた。

息が詰まり、視界が白くなる。

反射みたいに、力を全部かき集めて、無理やり声を押し出す。

 

「やめて……やめて……!」

 

喉が裂けるみたいに痛い。でも、止まらない。

布団の中で身を縮めながら、繰り返す。

 

「やめて……!」

 

叫び声が、布に吸われてくぐもる。

それでも、叫ばずにはいられなかった。

その瞬間、叩く感触が、ぴたりと止まる。

静寂が戻る。

自分の荒い呼吸と、狂ったみたいに鳴る心臓の音だけが、耳の奥で響く。

……聞こえなくなっただけなのか。

それとも、私の声を聞いたから、止まったのか。

 

叫んだあと、しばらくのあいだ、何も起こらなかった。

布団の中で縮こまったまま、全身に力が入り続けていて、逆にそれが急に限界に来る。

胸がひくひくと上下して、息が熱く、重い。

怖い。

でも、もう動けない。

さっきまで張りつめていた感覚が、音もなくほどけていく。

布団の重さも、冷たい感触も、はっきりしなくなっていく。

瞼が、勝手に落ちてくる。

抗おうとするけれど、思考が途中で途切れ途切れになる。

――もう、いいか。

そう思ったのかどうかも分からないまま、疲れが一気に押し寄せ、意識がゆっくりと遠ざかっていった。


――気づくと、朝だった。


カーテンの隙間から、やわらかい光が細く伸びて、部屋の床を照らしている。

いつの間にか、鳥の声や遠くの車の音も戻ってきていた。

 

「……」

 

しばらく、そのまま動けずにいる。

心臓の音は、もう落ち着いているけれど、体の奥に残った妙な緊張だけが、完全には抜けきらない。

ゆっくりと、布団をめくる。

顔を出して、部屋を見渡す。

机も、本棚も、カーテンも、壁も――

全部、いつも通りだ。

 

「……なんだ……夢か」

 

自分でも驚くくらい小さな声で、そう呟く。

昨夜のことが、一気に遠のく。

静けさも、音も、叩かれる感触も、ただの悪夢だったんだ、と頭が結論を急ぐ。

ベッドから降りて、伸びをしながら机のほうを見る。

 

――そこで、手が止まる。

机の足元に、ペン立てが横倒しになっている。

中身も全部、床に散らばったまま。

昨日の夜のまま、拾われることもなく。

夢、だったはずの光景が


――現実の形で、そこに残っていた。

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