第三話
「試すって……何を?」
そう聞き返しながら、自分でも分かっている。
昼休みの机、紙に書かれた言葉、遅れてきたあの感触——全部が、同じ答えを指していた。
凛は迷いもなく言う。
「かえるちょっぷだよ」
一瞬、足がすくむ。
夜はやらないほうがいいって、あんなふうに言っていたのに。
気が進まないのが顔に出たのか、凛は少しだけ声を和らげた。
「ね―ねー、お願い」
「私も今日家でやるから、ゆみも一緒にやってよ」
「夜にやるだけだからさー」
その言い方が、ただの遊びに引き戻そうとするみたいで、断る理由を見つけられなくなる。
胸の奥はまだざわついているのに、口は反対の動きをしてしまった。
「……わかったよ」
形だけの返事だった。
でも、凛はそれだけでぱっと明るくなる。
「ほんと? やった!」
夕方の道で軽く跳ねるようにしてから、「じゃあ、明日、学校でね」と言い、手を振る。
そうして、いつものように分かれ道で別れた。
一人になって歩き出すと、さっきの返事が遅れて胸に落ちてくる。
明日学校で。
その言葉が、夕暮れの中で、妙に長く後を引いていた。
◇
家に着くと、玄関の明かりがいつもどおりで、靴を脱いだだけで少しほっとする。
夕飯を食べながら、家族と学校の話をして、テレビを見て、笑って。
お風呂では湯気に包まれて、昼の教室のざわめきも、凛の真剣な声も、だんだん遠のいていった。
布団に入るころには、もう大丈夫だと思っていた。
けれど、電気を消して目を閉じると、意識だけが妙に冴えてくる。
時計の秒針の音がやけに大きく聞こえて、窓の外からカエルの声が混じってくる。
……昼間の話のせいだ。
それとも、このカエルの声のせいだろうか。
寝返りを打っても、目は閉じたままなのに頭が休まらない。
左腕に、あの「遅れてくる感触」を思い出してしまい、思わず息を吐く。
「……バカバカしい」
小さくつぶやいて、目を開ける。
しばらく迷ってから、よし、と心の中で決めて、布団を抜け出した。
部屋の明かりはつけず、月の光だけの中で立ち上がる。
こんなの、ただの遊びだ。
噂だ。
昼間の続きにすぎない。
そう思いながら、右手の薬指を曲げて、親指を重ね、残りの三本の指を立てる。
ばかみたい、と自分に言い聞かせながら、そっと左腕に向けて手を構えた。
外では、カエルが鳴いている。
一瞬、手が止まる。
夜中にやるな、って言ってた。静かになる、って――。
でも、その躊躇よりも、確かめたい気持ちのほうが、じわじわと広がっていく。
昼間の感触は、気のせいだったのか。
聞こえているカエルの声は、本当にとまるのか。
「……ちょっとだけ」
誰に言うでもなく、そう心の中でつぶやく。
右手の形を整え、息をひとつ飲み込んでから、左腕に振り下ろす。
ぱしんっ。
乾いた音が、夜の部屋にやけに大きく響いた。
その直後――まるで合図だったかのように、外の音が途切れる。
さっきまで重なって聞こえていたカエルの声が、ぴたりと止まった。
耳を澄ます。
思わず、喉の奥から声が漏れる。
「……え、すご」
自分でも驚くくらい、軽い笑いだった。
怖さよりも先に、確かに“起きた”という実感が勝ってしまったのだ。
もう一回。
そう思って、右手を持ち上げかけた、そのとき——。
おかしい、と気づく。
静かすぎる。
カエルの声だけじゃない。
さっきまで、気にも留めていなかったはずの道を走る車の音も、遠くの風が木を揺らす音も、全部ない。夜には必ずあるはずの、薄い雑音の層が、きれいに剥ぎ取られている。
耳をすませる。
聞こえるのは、自分の呼吸が肺を出入りする音と、胸の奥でどくん、どくんと鳴る心臓の音だけ。
これは「静か」なんじゃない。
音が消えた、という感じでもない。
——何かが、なくなった。
そんな感覚が、背中をゆっくりとなぞる。
世界から、ごく当たり前に存在していたものが、まとめて抜け落ちたような空白。
その空白の中で、自分だけが取り残されて、やけに輪郭を持ってしまっている。
左腕に視線を落とす。
そこには、昼間とは比べものにならない感覚が残っていた。
遅れてくる、あの感触。
今度ははっきり冷たい。
皮膚の上ではなく、もっと内側に、重く沈む冷えた何か。
さっき叩いたのは、自分の手だったはずなのに。
その冷たさは、まるで“混ざったまま”離れようとしない。
もう一度、かえるちょっぷをやろうとしていた右手が、いつの間にか止まっていた。
笑いは消えていて、
代わりに、音のない部屋で心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた
◇
翌朝、いつもより少しだけ重たい足取りで校門をくぐる。
特別に寝不足というわけでもないのに、頭の奥がぼんやりしていて、昨日の夜の静けさがまだ耳に残っている気がした。
席に着いて鞄を置くと、前の席の凛が、椅子を引く音も気にせず振り向いてくる。
目がやけにきらきらしていた。
「ねえ、昨日さ……すごかったよね」
抑えきれないみたいに、小声なのに勢いがある。
その言葉を聞いた瞬間、胸がきゅっと縮む。
やっぱり、あれは夢じゃなかった。
「うん……びっくりした」
そう答えながら、机の上に視線を落とす。
「……でも、なんだか怖かった」
友人は一瞬だけ真顔になってから、すぐにまた興奮した表情に戻る。
「でしょ? なんかさ、ただの遊びじゃない感じした」
教室にはまだ朝のざわめきが広がり始めているのに、
その会話だけが、昨日の夜とつながっているみたいだった。
左腕を机の下でそっとさすりながら、もう一度思い出す。
あの、音がなくなった感じ。
今日の学校は、ちゃんと音があるはずなのに。
それでも、昨日の続きを、二人とも無意識のうちに探しているような気がして、胸の奥が落ち着かなかった。
友人は少しだけ声を潜めて、でも抑えきれない様子で言いだした。
「ね、昨日さ……実は......」
「もう一個、ルール破ってみたんだよね」




