第二話
ざわめく教室の中で、音は確かにあふれているのに、不思議と凛の声だけがくっきりと耳に届く。
机を挟んで、こちらを見ながら、凛はゆっくりと指を三本立てた。
「ルールはね、三つあるんだって」
立てた指を、ゆらゆらと軽く揺らす。
その動きに合わせて、さっきの左腕の感触が、またひそかによみがえる。
「一つめは、夜中にやらないこと」
「……なんで?」
思わずそう聞くと、凛は肩をすくめた。
「わかんない。でもさ、夜にやると……なんか、静かになるらしいよ」
静か、という言葉が少し引っかかる。
「静かって?」
と聞き返すと、凛は指を折りながら、何でもないことみたいに言った。
「虫とか。あと、犬とか」
その瞬間、窓の外から聞こえていたはずの音を、反射的に探してしまう。
昨日の昇降口の声と、同じことを言っている。
昼休みの教室はまだ騒がしいのに、
その「静か」という言葉だけが、場違いに冷たく、机の間に落ちていた。
凛は話を続けるみたいに、立てていた指を一本折った。
「二つ目はね――手、返してやるのは禁止」
そう言いながら、自分の手をこちらに突き出す。
今度は手のひらじゃなくて、手の甲を見せるようにして。
「こうやって……」
言葉の途中で、手を少しひねる。
その仕草がやけに具体的で、思わず身を乗り出す。
「こっち側で、叩くと」
「……叩くと?」
と聞き返すと、凛は一瞬だけ間を置いてから、ひそひそ声になる。
「叩かれるらしいよ」
その言い方に、胸の奥がひやっとする。
「……誰に?」
とすぐに聞く。
友人は首を横に振る。
「それは、わかんない」
何でもないことみたいに言うのに、目を見ると好奇心でいっぱいなのがわかる。
ざわめきはまだ教室を満たしているのに、その会話の周りだけ、空気が薄くなった気がした。
さっきの左腕の感触が、また思い出したようにうずいて、思わず手の甲を見つめてしまう。
返してやるのは禁止。
その言葉が、音も立てずに頭の中に沈んでいった。
凛はそこで、ふっと力を抜いたように軽く笑った。
「で、三つ目」
折っていなかった最後の指を立て直しながら、少しだけ声を落とす。
「その手の甲同士を、合わせないこと」
その言葉を聞いた瞬間、自然と情景が頭に浮かぶ。
両腕を胸の前に寄せて、手の甲と手の甲をぴたりと合わせる姿。
手を組むわけでもなく、拍手でもなく、
ただ静かに向かい合わせるその形は——なぜだか、祈っているときの姿に似ている。
「……合わせるとね」
凛は、思い出すみたいに言葉を探してから続けた。
「声が聞こえるらしいよ」
「声?」
思わず聞き返すと、凛は曖昧にうなずく。
「うん。なんか……よくわかんないやつ」
そう言って肩をすくめ、
「まあ、ただの噂だけどね」と付け足す。
その態度は急に軽くなって、さっきまでの話が冗談だったみたいにも見える。
でも、私の胸の奥はそう簡単に戻らない。
ざわざわした教室の中で、自分の心臓の音だけがやけに近く感じられる。
理由はわからない。
ただ、その手の形を想像しただけで、
妙な不安が湧いてきて、鼓動が速くなっていた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが、突然、教室の空気を切り裂く。
さっきまでのざわめきが一瞬で形を変え、椅子が引かれる音や慌てた足音が重なった。
同時に、教室の扉が開いて先生が入ってくる。
前の席の友人は、はっとしたようにこちらから視線を切り、急いで体を正面に向ける。
さっきまで軽く揺れていた肩もぴたりと止まり、何事もなかったかのように背筋を伸ばした。
「はい、始めるよ」
先生の声が聞こえる。ノートを開く音、教科書をめくる音。
授業はいつも通り始まったはずなのに、私の頭の中はまったく別のところにあった。
黒板の文字を目で追っても、意味がつながらない。
耳に入ってくる説明も、音としては聞こえているのに、言葉として残らない。
――夜中にやらない。
――手を返すのは禁止。
――手の甲を合わせない。
さっき聞いた言葉が、順番もなく浮かんでは消える。
左腕に残っている気がするあの遅れてくる感触まで思い出してしまい、無意識のうちに腕をさすってしまう。
教室は静まり返っているはずなのに、胸の内だけがざわざわしている。
先生が何か質問している声が聞こえる。
でも、それが自分に向けられたものかどうかさえ、すぐには分からなかった。
ただ机に向かいながら、理由のわからない不安が、授業の間ずっと、心臓のあたりで小さく鳴り続けていた。
◇
放課後の校舎は、昼間とは別の顔をしている。
昇降口を抜けると空気が少し軽くなって、並んで歩く足音がコンクリートに響く。
凛とは、今日の給食がどうだったとか、明日のテストは面倒だとか、そんな他愛もない話をしていた。
どちらも笑っているし、会話も途切れない。
それなのに、ふとした間に、昼休みの机の感触や、遅れてきたあの気味の悪い感覚が頭をよぎる。
自分から話題にするほどじゃないけれど、完全に忘れることもできず、胸の奥に小さく引っかかっていた。
やがて、いつもの分かれ道に差し掛かる。
凛が足を止め、少し間を置いてから、こちらを見る。
「ねえ」
その声が、夕方の風の中でやけに静かに聞こえた。
「……今夜、試してみない」
一瞬、意味が分からず立ち止まる。
昼休みの言葉が、頭の中で一気につながる。
夜中にやらないほうがいい、って言っていたはずなのに。
返事をする前に、心臓がどくんと音を立てる。
放課後の空はまだ明るいのに、その提案だけが、先に夜の色を帯びている気がした。




