第一話
放課後の昇降口は、やけに音が響いていた。
誰かの笑い声が、床に落ちて、少し遅れてから返ってくる。
「ねえねぇ......“かえるちょっぷ”って知ってる?」
誰が言ったのかは、よく分からなかった。
靴箱に顔を突っ込んだままのやつもいたし、
外に向かって手を振ってるやつもいた。
みんなそれぞれ別のことをしているのに、その一言だけが、やけに近くで聞こえる。
「えー、なにそれ」
別の声が重なる。
「夜にやるとさ、静かになるんだって。全部」
「全部って?」
「全部だよ。蝉とか、犬とか……なんか、生きてるやつ」
「うわぁ、なんかこわすぎ」
笑い声が起きる。
でも、その中に一人だけ、笑っていない人がいる。
「あとさ、叩かれるんだって」
「は?」
「自分でやってるのに、違う“何か”に叩かれる感じ」
そこで、誰かが手を打った。
――ぱちん。
音が一つだけ、遅れて響く。
ほんの一瞬、
昇降口の外の音が消えた気がした。
風も、車の音も、全部。
「……今の......やった?」
誰かが言う。
でも、その問いに答える人は誰もいない。
◇
次の日の昼休み
教室はいつも通りうるさかった。
昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴ると、教室の空気は一気に弾け、
机を引きずる音、椅子がぶつかる乾いた音、あちこちから重なって飛び交う笑い声。
鞄から取り出したカードを広げて身を乗り出す子、
窓際で友だちに向かって身振り手振りを大きくする子。
ジャージの入った袋を振り回しながらじゃれ合う声が、黒板に反射していっそう大きくなる。
――はぁ......中学生だっていうのにみんな子供ね
なんて思いながらも、私も先生のいない教室は、まるでふたの開いた箱のようで、
元気と好奇心があふれ出し、昼の光の中で心がざわめいてくる。
前の席に座っている友達の凛が振り向き、こちらの机にひじをついて顔を近づける。
「ゆみ、昨日のやつ、聞いた?」
小声のつもりでささやくけれど、周りの騒がしさにかき消されないよう少し大きい。
「かえるジャンプだっけ」
「違うよー、“かえるちょっぷ”だよ」
軽い調子で訂正された。
昨日の昇降口の妙な感じとは、まるで別物みたいに。
「やり方、知ってる?」
そう言って、凛は手を出した。
薬指を曲げて、そこに親指を乗せる。
残りの三本――人差し指、中指、小指だけを立てる。
「これで、こうやって叩く」
凛が自分の腕を叩く。
――ぱちん。
乾いた音がした。
「ね、簡単でしょ」
特に何かが起きたようには見えないのに、本人は満足げにうなずいている。
私の拍子抜けした顔を見て、凛はくすっと笑った。
「最初はそんなもんだよ、じゃあ今度はゆみちゃんの番」
と軽く言う。
凛を真似て曲げた薬指に親指を重ねて、残りの指は立ててみる。
なるほど、確かにカエルの手に見えなくもない。
言われたとおりに自分の左腕を叩いてみた。
――ぺちん
何も起こらない。
怖さもあったけど、正直少し残念だ。
そんな私を見て、凛が何かを思い出したような顔をして笑う。
「そうだった、最初にやるときにはおまじないを唱えないといけないんだった」
ポケットから四つ折りにした紙を取り出し、こちらの机の上にすっと滑らせてきた。
――それ、最初に言ってよ。心の中で小さく突っ込みながら、紙を手に取る。
指で広げると、折り目がぱきっと音を立て、鉛筆で書かれた丸文字が現れた。
そこにはひらがなばかりの言葉が、少し不ぞろいな行間で並んでいる。
机に身を乗り出し、周囲の騒がしさを少しだけ忘れて目を走らせる。
半信半疑になりつつ、行間をじっと追う。
急に渡されたせいで期待と疑いが入り混じり、さっきの拍子抜けがまだ胸の奥に残っている。
紙を見つめたまま顔を上げると、凛はにやにやした表情でこちらを見ていて、その視線がまた少しだけ不安と好奇心をあおってくる。
――――――――――――――――――――
かえる かえる かえるちょっぷ
ひとつ かえして ひとつ もらう
かえる かえる かえるちょっぷ
このて だれのて かえさない
――――――――――――――――――――
指で文字をなぞりながら黙っていると、凛が身を乗り出してくる。
「読んでみて」
楽しそうに言う。
その声がやけに近く感じられて、胸の奥が少しざわついた。
「……なんか、こっくりさんみたいだね」
思わずそう言うと、凛は「でしょ?」と目を輝かせた。
もう一度紙に視線を戻す。
昼休みの教室は相変わらずうるさいのに、この机の上だけ、妙に静かに感じられる。
変だな、と思いながらも、試してみたい気持ちが勝ってしまう。
小さく息を吸って、周りに聞こえないくらいの声で、ぎこちなく言葉をつなげる。
「かえる……かえる……かえるちょっぷ……」
途中で一瞬、間があく。
これでいいのか分からず、紙と凛の顔を交互に見る。
でも凛は黙ってうなずくだけだ。
少し早口になりながら、最後まで言い切る。
「このて……だれのて……かえさない……」
言い終わったあと、何も起こらず、ただ紙の角が手の平に当たっている感触だけが残る。
戸惑いと気恥ずかしさが一緒に押し寄せてきて、そっと手を引っ込めると、凛が満足そうににやっと笑った。
その笑顔に、なんだか知らない遊びに一歩足を踏み入れてしまった気がする。
凛は期待をこめた声で、「もう一回、かえるちょっぷやってみて」と言った。
言われるまま、右手を見下ろす。
薬指を折って親指で押さえ、残った三本の指をそろえて立てる。
いつも使っている自分の手なのに、今度は少しだけよそよそしく見えた。
昼休みの騒音は相変わらずなのに、耳の奥がじんと静かになる。
「……いくよ」
誰にともなく小さく言ってから、左腕に向かって手を振り下ろす。
――ぱしんっ。
その瞬間、
ほんのわずかに、指の感触が遅れた気がした。
先ほどとは明らかに違う感触。
ぱしっと叩いた、その瞬間には何もなかった。
音も、痛みも、ただ軽く触れただけのはずだったのに――。
ほんの一拍、時間がずれてから、左腕の奥で何かが起きる。
遅れて波紋が広がるみたいに、じわり、と感覚が追いついてくる。
皮膚の表面じゃない。骨でも筋肉でもない、
どこだか分からない場所に、ぬるい重さが落ちてくる。
まるで、叩いたのが自分の右手じゃなかったみたいだ。
別のナニカの手が、同じ形を真似して、
同じ場所に触れた――そんな、理由のない感覚だけが残る。
思わずもう一度、手を見る。
三本の指は変わらず立っているのに、じんわりとした感覚が左腕に残って消えない。
さっきは何も起きなかったのに、今回は、確かに「触れた」感じがした。
「え、なにこれ」
「……ね、不思議だよね?」
前の席から凛が、声をひそめて言う。
返事をしようとして口を開くが、うまく言葉が出てこない。
ただ左腕をさすりながら、曖昧にうなずく。
教室のざわめきが戻ってくるのに、その感触だけが、そこから取り残されたみたいに、静かに腕の内側に居座っていた。
「なんかさ……自分の指じゃないみたいだよね」
凛が、確かめるみたいに言う。
その声を聞いた途端、その言葉がぴたりとはまって、さっきの感覚がさらに輪郭を持った。
うなずく代わりに、もう一度やってみよう、と無言で意思が固まる。
同じ形に指を折り、同じように腕を構える。
今度は、さっきより少しだけ慎重に、息をひそめて。
――ぱしんっ。
叩いた瞬間は、やっぱり軽い。
……でも、すぐに分かる。
今回はごまかしがきかない。
遅れてくる感触が、はっきりと違う。
自分の手の感覚と、そうじゃない何かが、混ざり合わずに重なっている感じ。
水と油みたいに、境目が分かるのに、離れない。
叩かれた、というより“触れられた“。
しかも、知っている触り方じゃない。
息をのむと、凛が少し満足そうに目を細めた。
「でしょ。ちゃんと分かるようになるんだよ」
そのまま少し間を置いて、声を落とす。
「……でね、かえるちょっぷには、ルールがあってね」
昼休みのざわざわが、遠くにずれる。
左腕に残るその感覚を抱えたまま、思わず凛の顔を見る。
遊びの続きのはずなのに、次に何を言われるのか、なぜか聞いてはいけない気もして
――それでも、耳をふさいではいられなかった。




