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第十五話

目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。

カーテンの隙間から、もう朝の光が差し込んでいる。

しばらく布団の中で瞬きをしてから、時計を見る。 


——まだ、早い。

なのに、もう眠れそうになかった。

起き上がって、制服に袖を通す。

いつもより動きが軽い。

心が勝手に先へ進んでいく。

机の前に置いていた鞄を持ち上げて、口を開ける。

中を確認してから、引き出しにしまっていたお守りを取り出した。

小さな音を立てて、いくつかのお守りが手のひらに乗る。

……ちゃんと、持っていこう。

ひとつだけじゃなく、全部。

どれが効くかなんて分からないけど、

「守ってほしい」という気持ちだけは、全てのお守りに込めている。

どれか一つくらいはきっと守ってくれるはず。

そう思いながら、鞄の内ポケットにそれをそっと入れる。

今日は、凛に渡す。絶対に。

昨日は電話でしか話せなかった。

声は元気そうだったけれど、やっぱり顔を見たい。

何より——

昨日あったことを、凛と話したかった。

 

他の子たちがやっていた、違う形のかえるちょっぷ。

手の指の数。

ルールが、まるで別の遊びだったこと。

同じ形の似ている響き。かえるちょっぷとカルマチョルプ

 

凛に話せば、またあの笑顔で「なにそれ」と笑うかもしれない。

それでもいい。

笑ってくれるならそれでいい。

早く会いたい。

玄関で靴を履きながら、自然と口元が緩む。

今日は、凛が学校に来る。

電話でそう言っていた。

会ったら、

昨日の続きの話をして、

それから——

お守りを渡す。

今度こそ。

ちゃんと。


学校へ向かう道を、自然と早足で歩く。

特別急いでいるつもりはないのに、気づけば信号が変わるのを待つのももどかしい。

校門を抜け、校舎に入る。

廊下の音も、朝のざわめきも、今日は少し遠く感じられた。

階段を上がり、教室の前に立つ。

息を整える間もなく、扉に手をかける。

……きっといる。

そう思いながら、教室の扉を開けた。

引き戸に手をかける。ガラ、と乾いた音がして、朝のざわめきが流れ込んできた。

最初に目に入ったのは、いつもの景色。

黒板、机、誰かが騒いでいて、笑い声が聞こえてくる。

視線が勝手に凛の席へと向かう。

二列目の窓側。

 

そして――

その席だけが、ぽっかりと空いていた。

 

一瞬、時間が止まったみたいに固まる。

胸の奥が、きゅっと縮み、嫌な予感が走る。

……遅れてるだけ......だよね。

そう思おうとした、そのとき――

 

「おはよー」

 

聞き慣れた声が、すぐ後ろから飛んできた。

心臓が跳ねる。

反射みたいに振り返ると、そこには見慣れた制服姿が立っていた。

肩までの髪。少し眠そうな目。

片手にコンビニ袋をぶら下げて、いつもの気の抜けた顔でこちらを見ている。

 

「……え」

 

思わず声が漏れる。

凛はきょとんとしたあと、すぐに吹き出した。

 

「って、なにその顔」

 

くすくす笑いながら、私の目の前で手をひらひら振る。

 

「私の顔、忘れちゃったの?」

 

凛が、立っていた。

いつもの明るい声。

いつものからかうような言い方。

 

「いや……」

 

思いがけず間の抜けた声が出る。

 

「びっくりした?」

 

凛はそう言って、小さく笑う。

けれど、近くで見ると顔色がよくない気がする。

本人は気にしていないみたいに立っているけれど、

どこか、無理をしているような立ち方だった。

 

「久しぶりの学校も悪くなくってよ」

 

とバカなことを言いながら、自分の席に向かう。

 

「……その、体調どう?」

 

席の横に並んで歩きながら、私は凛の顔を覗き込む。

声はできるだけ、さっきまでと同じ調子で。

 

「大丈夫だって」

 

凛は即答する。

ちょっと面倒くさそうに笑って、軽く手を振る。

 

「昨日言ったでしょ?もう平気、ただの夏風邪」

 

確かに声は元気だ。

言葉もはっきりしている。

いつもの凛の話し方。

でも、近くで見ると――

やっぱり、顔色が良くない。

唇の色が薄くて、目の下に、うっすらと影がある。

無理して笑っているみたいにも見えた。

 

「でも……」

 

続きを言いかけて、言葉に詰まる。

何から話せばいいのか、一瞬で分からなくなった。

昨日見た心霊番組のこと。

手の形。

カルマチョルプと、かえるちょっぷ。

それとも、別の子たちがやっていた違う遊びのこと?


そんなふうに迷っている間に、時間だけが先に進んでしまう。

 

「……ねえ」

 

覚悟を決めて、口を開きかけた、そのとき。

 

キーンコーンカーンコーン――。

 

始業のチャイムが、教室に響き渡った。

 

「あ」 

 

凛が小さく声を出す。

 

「やば、始まる」

 

先生が入ってくる気配。

教室の空気が、一斉に切り替わる。

 

「あとでね」

 

凛はそう言って、自分の席へと急ぐ。

私は一瞬だけ立ち止まってから、慌てて自分の席に戻った。

椅子に座る。

机に鞄をかける。

鞄の中で、お守りが小さく揺れた。

 

——あとで落ち着いたら渡そう。

教室の前に立った先生の声が、遠くで響いている。

私は黒板を見るふりをしながら、

凛の背中を、少しだけ目で追った。

 

授業は、いつも通りに進んでいた。

黒板の文字を書き写しながら、私は何度か、前の席の凛に視線を向ける。

背中はまっすぐで、先生の話も聞いているように見えた。

……少しだけ、肩が強張っている気はしたけれど。

 

「……っ」

 

小さく、空気の抜けるような音がした。

次の瞬間、凛の体が、かくんと崩れる。

 

 ガタンっ

 

椅子が激しい音を立てて倒れた。

 

「きゃあ!」「ちょ、ちょっと」

 

誰かの悲鳴が上がる。

教室が、一瞬でざわつきだす。

凛は床に倒れ込んで、動かない。

呼吸はしている。目は薄く開いているが焦点は合っていなかった。

私は反射的に席を立っていた。

 

「……大丈夫?」

 

肩に手を伸ばすと、凛の体がひどく軽く感じられる。

返事はない。

 

「保健室! 誰か!」

 

先生の声が飛ぶ。

気づくと、私は凛の腕を支えて立ち上がらせていた。

廊下に出て、保健室までの短い距離を歩く。

力の抜けた凛の体は思ったより腕に重さがかかる。

廊下へ出ると、教室のざわめきが扉一枚越しに遠ざかっていった。

 

「……ごめんね」

 

凛が、かすれた声で言った。

 

「心配……かけて……」

「いいから、喋らなくて」

 

そう言いながら、喉の奥が妙に乾く。

保健室に入ると、すぐにベッドに横にならされる。

保健室の先生が凛の状態を確認しながら、静かに言った。

 

「お母さんに連絡するね。迎えに来てもらおう」

 

その言葉に、凛は小さくうなずく。

しばらくして、少し落ち着いた頃、

凛が、ゆっくりと左手を伸ばしてきた。

 

「……大丈夫だから」 

 

そう言って、私のほうを見る。

私はその手を、ぎゅっと握り返す。

 

「きっと......すぐによくなるよ」

 

自分でも驚くくらい、声が震えた。

そのときだった。

凛の袖口が少しだけずれて、左腕がはっきりと視界に入る。

私は息を呑んだ。

あざが見えていた。赤黒い痕。

以前、ちらりと見えた時は「噛まれた跡みたいだ」と思っただけだった。

けれど今は違う。

はっきりと、人の歯形に見えた。

上下の歯列が半円状に皮膚へ沈み込むように浮かび上がっている。

しかも――増えていた。

一つじゃない。

腕の外側に沿うように、いくつもの歯形が重なっている。

まるで誰かが何度も、何度も噛みついたみたいに。

色も濃くなっていた。

古い痣の紫と、新しい赤黒さが混ざり合って、皮膚の下で腐っているみたいに見える。

私は無意識に喉を鳴らした。 

 

「……」

 

凛は気づいていないのか、

それとも、もう何も感じなくなってしまっているのか。

何事もない顔で、私の手を握ったままいる。

そのとき、保健室の先生がこちらを見る。

 

「ありがとうね。もう大丈夫だから、授業に戻って」

 

私は、すぐに手を離せなかった。

もう少し。あと一言だけでも。

何か、言わなきゃいけない気がする。

でも、言葉が出てこない。

 

「……またね」

 

それだけ言って、手を離す。

保健室を出ると、廊下は静かだった。

自分の足音だけが、やけに大きく響く。

教室へ戻りながら、

さっき見た左腕の痕が、頭から離れない。

あれは、

「良くなっている途中」の痕じゃなかった。

 

——進んでいる。

そう思った瞬間、

鞄の中にあるお守りの感触が、急に遠く感じられた。

また間に合わなかった。

その事実だけが、

はっきりと胸の奥に残っていた。


教室に戻ってからの時間は、ひどく長く感じられた。

黒板を見ても、文字が頭に入ってこない。

先生の声は聞こえているのに、意味だけが抜け落ちていく。

凛の倒れた瞬間が、何度も繰り返される。

保健室のベッド。

あの左腕の痕。

「大丈夫だから」と言っていた声。

ペンを持つ手が止まりがちになるたび、

ノートに意味のない線だけが増えていく。


——今、どうしてるんだろう。

凛のお母さんはもう来ただろうか。

ちゃんと、話せているだろうか。

時計を見る。

針は、いつも通りの速さで進んでいるのに、

時間だけが、私から置き去りにされている気がした。

 

授業が終わっても、集中できなかった。

チャイムの音すら、遠くで鳴っているみたいだった。

帰りの用意をしていると、廊下から名前を呼ばれる。

 

「ゆみさん、ちょっと」

 

振り向くと、担任の先生が立っていた。

胸の奥が、ひやりと冷える。

先生に促されて、教室の外へ出る。

人気のない廊下で、先生は一度言葉を選ぶように間を置いた。

 

「凛さんのことだけどね」

 

その一言で、指先に力が入る。

 

「体調が思ったより良くなくて、病院で検査を受けることになったそうです」

 

そこまでは、想像していた。

でも、次に続いた言葉で、

頭の中が一瞬、真っ白になる。

 

「しばらく、入院することになりました」

 

――入院。

その言葉が、はっきりと形を持って落ちてくる。

 

「大事を取って、ってことだから」

 

先生はそう付け足すけれど、

その声は、うまく耳に残らなかった。

 

「クラスのことはこちらで伝えておくからね。心配だろうけど……」

 

私は小さくうなずく。

それ以外の反応が見つからない。

凛は、今、病院にいる。

同じ町の、どこかの部屋で。

私の鞄の中には、お守りがある。

今朝、確かに持ってきた、それ。

でも、もう——


渡す相手はいない。

教室へ戻る途中、廊下の窓から外を見る。

放課後の校庭は、さっきまでと何も変わらない。

誰かが笑って、誰かが走っている。

その中で、凛だけが、いない。

胸の奥に、重たいものが沈んでいく。

 

「あとで」

 

そうやって先送りにしてきた時間が、

全部まとめて、今、手の届かない場所へ行ってしまった気がしていた。

私は、強く鞄を抱え直す。

中に入っているお守りが、

もう、ただの重さにしか感じられなかった。


 ◇


それから、二日たち、三日たち、凛に会えない時間が続いた。

学校はいつも通りにある。

授業も、休み時間も、放課後も。

何も変わらないはずなのに、凛のいない席だけが、ずっと目に引っかかった。

家に帰ると、スマホを手に取る。

短いメッセージを送って、画面を伏せる。

 

「体調どう?」

「無理してない?」

 

既読はつかない。

画面には、自分の言葉だけが並んでいた。

忙しいだけかもしれない。

検査が続いているのかもしれない。

そう思おうとしても、夜になると考えが戻ってくる。


——あの日、渡していたら。

朝、鞄に入れたお守り。

教室で声をかけられたはずの一瞬。

チャイムが鳴って、席に着いた、その判断。

持っていた。

渡そうと思っていた。

でも、渡さなかった。

その事実が、何度も頭の中で巻き戻される。

一方で、別の考えも浮かぶ。


——渡したからって、何が変わった?

——お守りで、あれが止まるの?

そう思った瞬間、今度は別の後悔が顔を出す。

渡さなかった言い訳を、探している自分に気づいてしまうから。

机の引き出しを開けると、残っているお守りが目に入る。

学校に持って行ったままのものと、新たに買い足したもの。

並べて見ると、どれも同じに見える。

効くかどうかなんて、分からない。

信じることでしか、意味を持たないもの。

それでも、「渡せなかった」という事実だけが、重く残る。


夜、ベッドに横になっても、

スマホから手が離れない。

返事が来ない画面を、何度も見て、

画面を消して、

また見てしまう。

「もう取り返せない」という感覚が、頭の中でぐるぐる回り続けていた。

会えない時間は、何も起きていないのに、

確実に何かを削っていく。

私は、まだ何もしていない。

それなのに、

何かを失い続けている気がしてならなかった。

鞄の奥に残ったお守りが、その証拠みたいに黙ったまま重さを主張していた。

 

気がつけば、

凛の家に泊まった、あの夜から一週間が過ぎていた。

曜日を意識しないまま過ごしていたけれど、

カレンダーを見て、今日は土曜日だと知る。

凛からの返事は、まだ来ていない。

スマホの画面を開いて、閉じる。

その動作も、もう癖みたいになっていた。


——今、何してるんだろう。

——検査は、終わったのかな。

考えても、答えは出ない。

同じことを繰り返し考えるうちに、

頭の中が重くなっていく。

このまま部屋にいたら、

また同じことを考え続けてしまう気がした。

 

「……ちょっと、出てこよう」

 

誰に言うでもなく、そうつぶやく。

気分転換。

理由はそれで十分だった。

上着を羽織って、靴を履く。

ドアを開けると、外の空気が思ったより暖かい。

特に行き先を決めたわけじゃない。

いつもの道を、なんとなく歩き出す。

歩いている間だけは、考えることをやめられる気がした。

凛の左腕のことも。

お守りのことも。

あの手の形のことも。

全部、少しだけ脇に置いて。

私は、気づかないふりをするように、

ゆっくりと、近所の道を歩き始めた。

 

公園の前を通りかかる。

ブランコのきしむ音。

ボールが地面を跳ねる音。

小学生くらいの子どもたちが、何人かで遊んでいるのが見えた。

久しぶりに見る、いつもの光景。

思わず、そのまま通り過ぎようとする。


――その時。

女の子の声が、風に乗って耳に入った。

 

「ねぇねぇ」

 

少し高くて、よく通る声。

 

「かえるちょっぷって知ってる?」

 

足が、止まる。

言葉の意味を理解するより先に、体のほうが反応してしまった。

女の子は、同じ年頃の子たちに向かって話している。

楽しそうで悪意のない声。

 

「これね、ちょっと変わった遊びなんだよ」

 

笑い声が混じる「なにそれー」「知らなーい」という返事。

私は、公園の入口から少し離れたところで、

動けずに立ち尽くしていた。

偶然だ。

同じ名前の、別の遊び。

そう思おうとするのに、

胸の奥がじわじわと冷えていく。

「かえるちょっぷ」

もう一度、その言葉が聞こえた。

逃げるように歩き出すこともできたはずなのに、

足はいうことをきかなかった。

私は、フェンス越しに女の子の方を見てしまっている。


——どうして、今ここで。

心臓の音が、やけに大きく聞こえた。

はっきり言葉にできない。

ただ、もう、自分たちだけの話じゃないという予感だけが、

静かに胸の中に満ちていった。

 

「こうやるんだよー」

 

女の子がそう言いながら、右手を胸の前に上げた。

私は、次の瞬間に息を止めていた。

薬指を折り、

その上に親指を重ね、

残りの三本の指を、そろえて立てる。

——同じだ。

自分と、凛がやっていた、あの かえるちょっぷの手。

心臓が一気に早まる。

凛が倒れた日の床。

保健室のベッド。

左腕に増えていった歯形みたいな痕。

あの夜、窓の外を見つめていた背中。

全部が一気に頭に流れ込んでくる。

 

「……ちょっと!」

 

気づいたときには、声が出ていた。

足が、公園の中へ踏み出している。

止めなきゃ。

それだけがはっきりしていた。

 

「それ、やめたほうが——」

 

言葉が続くより先に、

女の子は私のほうをちらっと見て、

まるで続きを分かっていたみたいに、口を開く。

 

「かえるちょっぷにはね」

 

一瞬、間が空く。

その間がやけに長く感じられた。

 

「四つのルールがあるんだよ」

 

その言葉を聞いた瞬間、

胸の奥が、ぞくりと冷える。

 

——四つ!?

 

私の伸ばしかけた手が、空中で止まったままになる。

女の子は、何も知らない顔で、楽しそうに続きを話そうとしている。

その無邪気さが、かえって逃げ場のなさをはっきりさせていた。


——まだ、続きがある。

 

そう思ったときには、

公園のざわめきが、遠くに引いていくみたいに聞こえていた。


私は、その続きを聞いてはいけないと分かっていながら、

目を逸らすことができなかった。


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