第十六話
女の子は、私の声に驚いた様子も見せなかった。
ただ一度、こちらに視線を向ける。
そして、何事もなかったかのように話をつづけた。
「かえるちょっぷにはね」
さっきと同じ、少し自慢するみたいな調子で。
秘密を知っている子ども特有の、得意そうな響き。
「ルールがあるんだよ」
周りにいた子たちが、「ルール?」「なにそれ」と笑いながら顔を見合わせる。
女の子はその反応が嬉しいかのようにうなずいた。
「まずね、夜はやらないこと」
その言葉を聞いて、胸の奥に冷たい石が静かに沈んだ気がした。
——知ってる。
頭のどこかですぐに反応する。
「それから、途中で手をひっくり返さないこと」
女の子は自分の手を軽く振って説明する。
「返しちゃダメなんだよ。最後まで」
――それも、知っている。
凛と何度も確認した。
ふざけ半分だったはずなのに、あの時の私たちは、妙に真剣だった気がする。
「三つ目はね」
そこで、女の子の声が少しだけ低くなった。
「手の甲を合わせちゃダメ」
その言葉で、私は一瞬、息を止めた。
あの夜が脳裏に浮かぶ。
凛の手。重なり合った、手の甲。
カルマ チョルプという言葉。
「こういうのはね」
女の子は自分の手を軽く合わせる仕草だけして、理由は言わなかった。
「ダメだから」
それだけ。ただ、それだけなのに。
その言葉が、妙に現実感を伴って胸に落ちてくる。
私は......やらなかった。一人だけ。
凛の手を引きはがした感触まで思い出しそうになって、胃の奥がきゅっと縮む。
ここまでは、全部知っている。
いや、知っているのに
——破ってしまった。
女の子はそんなことも知らずに話を続ける。
少し考えるみたいに間を置いてから、指を一本立てる。
「で、最後」
声のトーンが、わずかに変わる。
その声を聴いた瞬間、背中を冷たいものが走った。
「四つ目のルール」
――私たちが知らなかった四つ目のルール。
嫌な予感がする。理由なんてない。
でも、聞きたくないと思った。なのに、耳だけは勝手にその先を待っている。
女の子は、何でもないことのように言う。
「手の甲を合わせてるところを、人に見られちゃいけない」
喉の奥で何かがひゅっと縮んだ。呼吸の仕方を一瞬忘れる。
......え?
......人に......見られたら......?
耳には女の子の言葉は聞こえている。
言葉の意味も理解できている。
なのに、脳だけがそれを現実として受け取ることを拒んでいた。
頭の中で、あの夜の出来事がばらばらに浮かび上がる。
「だから、こっそりね」
「見られたら、ダメなんだよ」
周りの子たちは、「めんどくさ」「ルール多すぎ」と笑っている。
でも、私の中で凛の倒れた日の光景が音もなく蘇ってくる。
——私が見たから。
無意識に指先が小さく震える。
視界の端がゆっくりと暗くなっていく感覚。
――違う。そんなはずはない。
否定しようとしても、心のどこかが理解してしまっている。
女の子はそんな私に気づきもしない。
ただ無邪気に「ルールは守らなきゃね」と笑った。
その声がひどく遠く聞こえた。
ただ一つだけ、頭の中で反響している。
――私のせいだ。
視界がぐらりと揺れる。
指先から熱が抜けていき、膝が震える。
立っているはずなのに足元だけが崩れていくようだった。
女の子は、立てていた指を下ろした。
そして思い出したような表情を浮かべた。
「あとね」
その声に、私は無意識に身構えていた。
これ以上、何があるというのだろう。
「やる前に、おまじない言うんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひくりと跳ねる。
——おまじない。
凛が、最初に教えてくれたもの。
紙に書かれていた、あの意味の分からない言葉。
......ここまで同じなら、きっと、それも。
女の子は、周りの子に聞かせるみたいに、少しゆっくり口を開く。
「いくよー」
私は、息を止めていた。
「かーらま かーらま かーらまちぇーだ」
——違う。
一音目でそう分かった。背筋がぞわりと粟立つ。
「えーかむ だだーみ えーかむ はらーみ」
響きは少し似ている。でも、決定的に違う。
「……あやむ はすた まま なーすてぃ」
嫌な汗がジワリと背中を伝う。
「かーらまちょるぷ ぷなーる な あーヴりってぃ」
女の子は最後まで言い終えると満足そうにうなずいた。
似た音。似たリズム。
でも、あの時よりもさらに意味が分からない。
ふと、頭の奥にテレビで語られていたあの言葉がよみがえる。
カルマチョルプ......つなぐ......背負う。
少しずつ意味が繋がりだす。
業を人に背負わせる儀式。カルマチョルプ。
もし、だれかが遊びに混ぜてこの儀式を広めていったとしたら......
カルマチョルプ......かーらまちょるぷ......かえるちょっぷ......
もし、人から人へ伝わるときに少しずつ響きが変わっていったとしたら......
薬指を曲げて親指を重ね、残りの3本の指を立てる。
唯一共通するのはこの手の形。
喉が焼けるみたいに渇く。考えがまとまらない。
女の子はそんな私に気づかないまま笑った。
「簡単でしょ?」
その声が遠く感じる。
何かはわからない。
でも、私は、今、大きな悪意に巻き込まれている感覚がぬぐえなかった。
女の子の言葉が終わると、公園に短い沈黙が落ちた。
「ルール多すぎじゃない?」「めんどくさー」
誰かが笑いながら言う。
「ブランコ乗ろー」
その一言を合図にしたみたいに、子どもたちは一斉に散っていった。
笑い声が遠ざかり、さっきまでの輪が崩れていく。
誰も、手の形を作らない。誰も、かえるちょっぷをやらない。
さっきまで集まっていた場所には、私とその女の子だけが残った。
風が吹いて、木の葉が擦れる音がする。
女の子は、まだその場に立っている。
――今しかない。
胸の奥が強く鳴るのを抑えながら、私は一歩近づいた。
「……ねえ」
声が思ったより小さくなる。
女の子がゆっくりこちらを見る。
「その……」
喉がひくりと鳴る。それでも、聞かなければいけない。
「……四つ目のルール」
意を決して、続ける。
「それ、破ったら……どうなるの?」
女の子はすぐには答えなかった。
さっきまでの笑顔が消えている。
ただ、無表情でじっと私の目を見つめてくる。
瞬きすらない。その目からなぜか視線を外せない。
時間が、少しだけ引き延ばされた気がした。
そして、女の子は静かに口を開いた。
「……むかえにくるよ」
それだけだった。
説明も付け足しもない。
脅かすみたいな言い方ではない。
怖がらせるつもりもなさそうだった。
まるで、明日は雨だよ、とでも言うみたいな声。
ただの事実、そういう響きだった。
私は、何も言えなかった。
女の子は、もう私に用はないというふうに視線を外しそのまま歩いていく。
ブランコの軋む音。遠くの笑い声。夕方の風。
公園は何も変わっていない。
なのに、
『むかえにくるよ』
その言葉だけが耳の奥に残り続けていた。
気づいたときには、私は走っていた。
理由を考えるより先に足が勝手に動いている。
舗道を蹴る音がやけに大きく響く。
息が苦しい。肺が熱い。それでも止まれない。
——むかえにくるよ。
さっきの声が何度も頭の中で反響する。
――誰が。
――何を。
凛の顔が浮かぶ。
ベッドに横になっていた姿。
あの左腕。増えていった歯形みたいな痕。
胸の奥がぎゅっと縮まる。
——凛はもう。
考えた瞬間、私はさらに速度を上げていた。
家が見えてくる。
見慣れたはずの玄関。
玄関の前に立ち、鍵を取り出す。手が少し震える。
鍵穴に差し込み、勢いのまま乱暴に回す。
玄関の扉を押し開けて、私はそのまま中に入った。
靴を揃える余裕もなく、扉を閉める。
家の中は静かだった。物音も人の気配もない。
誰もいない。それが分かった瞬間、背中を冷たいものが走る。
廊下を抜けて、階段を駆け上がる。
二階。廊下。自分の部屋。
勢いよくドアを開き、中へ飛び込む。
後ろ手で、勢いよくドアを閉めた。
がちゃん、と鈍い音。
胸が上下する。
呼吸がなかなか落ち着かない。
私はドアにもたれかかったまま、しばらくその場から動けなかった。
——凛に会わなきゃ。
そんな言葉すら頭の中で形にならない。
――そうだ、行く前に。
机の引き出しを乱暴に開ける。
中を掻きまわし、指先がお守りに触れる。
それを掴み、強く握りしめる。
——持って行かなきゃ。
凛のために。
今なら、まだ。そんな根拠のない考えに縋るしかなかった。
胸の奥が、痛いほど締めつけられる。
――私が見たせいで。
そう考えた瞬間、居ても立ってもいられなくなった。
私はお守りを握ったまま、すぐに部屋を出ようと振り向く。
そのとき。
視界の端に姿見が映った。
出入り口の横に立て掛けてある、いつも使っている全身鏡。
その横を通り過ぎるだけのはずだった。
私は、ふと、違和感を感じる。
——っ
理屈より先に、頭のどこかが危険信号を告げていた。
鏡に映っている自分が、横を向いていない。
横を向かず真正面からこちらを見ている。
私は、今もドアのほうを向いて、半ば駆け出す姿勢のまま立っている。
それなのに。
鏡の中の私は、真正面を向きこちらを見ていた。
一瞬、理解が追いつかない。
頭の中で、自分の位置と角度を、必死にすり合わせようとする。
鏡の中の私は無表情でこちらを向いている。
背中を、冷たいものが走る。
でも、目が離せない。
鏡の中の私が、ゆっくりと右手を上げる。
私は、動いていない。
なのに。
鏡の中の右手は、迷いなくあの形を作り始める。
薬指を折る。
親指を、そこに重ねる。
残りの三本の指を、揃えて立てる。
——かえるちょっぷの手。
息が喉で止まる。胸が強く打つ。
鏡の中の私は、今度は、もう一方の手も上げた。
同じ形を寸分違わず作る。
やめて、と叫びたいのに声が出ない。
そして。
両手の甲を、静かに合わせた。
その瞬間、背中にはっきりとした寒気が走った。
氷水を流し込まれたみたいに、体の芯が一気に冷える。
——ああ、だめだ、もう。
――私も......見てしまった。
鏡の中の私は、完成したその形を胸の前で保ったまま、じっと、こちらを見つめている。
まるで、確認するみたいに。
部屋の中は、静まり返っている。
自分の呼吸の音だけが、うるさいくらいに耳に残る。
目が離せない。どれくらいの時間がたっただろう。
鏡の中の自分が、顔はそのままに目だけを動かした。
ごく、ゆっくりと上に。
ずずず……と、時間を引きずるみたいに、ゆっくりと見上げる。
それにつられるみたいに、私も目だけを上に向けてしまう。
――怖い、見たくない、
そう思っているのに、視線だけが勝手に引き上げられる。
そして、鏡の中の目が、ゆっくり右へと動く。
ずずず……。
同じ速度で、私の視線もなぞってしまう。
見てはいけない。
そう分かっているのに、私ではない何かが、目を動かしているみたいだった。
——やめて。
声にならない願いが、喉の奥で潰れる。
鏡の中の視線が、ゆっくりと右下に動き出す。
そこで、ぴたりと止まった。
私の目も同じ場所で止まる。
そこに何があるのか理解するより先に、視界の端へ何かが入り込む。
靴。床に立つ誰かの足。
いや、誰かではない。立ち方に見覚えがある。
息が上手く吐けない。
動けない。振り向いたらすべてが終わる気がする。
そのとき。
背後から声がした。
『 ゆみ 』
聞き慣れた声。
優しくて。
懐かしくて。
ずっと聞きたかった声。
『 迎えに来たよ 』




