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第十四話

放課後、家に帰る。

靴を脱いで部屋に入ると、昼間の学校よりもずっと静かだった。

かばんを床に置き、机の前に座る。

しばらく何もせずにスマホを見つめてから、意を決して凛に連絡を入れた。

少し待って、着信音。


「もしもし?」


凛の声が聞こえた瞬間、胸の奥がふわっと緩む。

いつもと変わらない、明るい声。

 

「……体調、どう?」

 

できるだけ、普段通りに聞く。

 

「んー、たぶん夏バテか、夏風邪かなぁ」

 

そう言って、軽く笑う。

 

「昨日ちょっとだるかったけど、寝たらだいぶ良くなったよ」

「明日には学校行けそうだし」

 

その言葉を聞いて、ほっと息をつく。

声に力はあるし、受け答えもしっかりしている。

——大丈夫そうだ。

 

「そっか……よかった」

 

その一言に、安心が滲んでしまう。

少し間が空く。

昼間、教室で見た、別のかえるちょっぷの光景が一瞬だけ頭をよぎる。

手の形。

三つのルールの話。

「別のナニカ」という言葉。

でも、それを今、凛に話す気にはなれなかった。

弱っているところに、余計な心配をかけたくない。

それに、うまく説明できる気もしない。


「じゃあ、無理しないでね」

 

そう言うと、

 

「はーい。心配性だなぁ」

 

と、冗談めかして返ってくる。

通話を切り、スマホを置く。

机の上に視線を落とすと、そこにお守りがある。

何個も買ってしまった小さなお守り。

今日は、渡すつもりだった。

凛の手に直接渡そうと思っていた。

私はそれをそっと手に取る。

ひとつじゃなくて、全部を握りしめる。

布越しに感じる、軽い重さ。

守ってくれそうな気がした、それだけの理由で選んだもの。


——明日、渡そう。


凛は元気だ。

明日には学校に来ると言っていた。

そう信じながら、私はお守りを、机の引き出しにしまった。


不安は、完全には消えなかったけれど、

その夜は、少しだけ安心した気持ちで、電気を消した。

それが、間違いだったかどうかは、

まだ、この時の私には分からなかった。


 ◇


夕食が終わり、食器の音が台所の奥に消えていく。

リビングのソファに腰を掛け、何となくテレビをつけた。

テーブルの上には飲みかけのコップ。

テレビの青白い光が、カーテンに反射している。


――今日は疲れた。

頭も、体も。

考えすぎた一日だったせいか、画面をちゃんと見る気力もなくて、映像と音をただ流すつもりだった。

画面が切り替わる。

――心霊特集。

司会者の少し大げさな声と、背筋をくすぐるような効果音。

夏だからか、こういう番組が増えている。

ぼんやり眺めていると、話題はあるミュージシャンのミュージックビデオに移った。

ライブ映像。

ステージに立つアーティスト。

客席の観客たちが、手を叩いている。

その映像が、一時停止される。

画面の中央に、赤い丸。

「ここをご覧ください」

司会者が言う。

アップにされた観客の一人。

拍手をしている。

でも――

「この人、手の平じゃなくて、手の甲で拍手をしているんです」

思わず、体が固まる。

一瞬、頭の中には別のイメージが浮かんできたが、それを振り払う。

画面には、はっきりと映っていた。

指を折り、甲同士を打ちつけるような不自然な拍手。

「これは『死拍手』と呼ばれるものです」

ナレーションが続く。

「手の平を合わせる拍手は、生きている人の仕草。

それに対して、手の甲で拍手をするのは、死者の拍手だと言われています」

画面に注釈が出る。

死拍手しびょうしゅ”。

“死者が喜びを表す仕草”。

冷房の音が、やけに大きく聞こえた。

「つまり、この観客の中に――」

ナレーションが少し間を置く。

「“この世のものではない存在が混じっている可能性がある”ということです」


……はいはい。

 

心の中で、そんな言葉が浮かぶ。

よくあるやつだ。

心霊番組で何度も聞いたことのある言い回し。

曖昧で、否定も肯定もできない、便利な締めくくり。

画面に映る写真も、赤い丸も、

“可能性”という言葉で全部まとめてしまう感じも、

正直、目新しさはなかった。


ぼんやりと画面を眺めていると、例の心霊特集が続いていた。

さっきのミュージックビデオの話から、今度はスタジオ映像に切り替わる。

画面の中に、霊能者と紹介された人物が映し出される。

落ち着いた口調で、淡々と話し始める。

 

「手にまつわる話って、実は結構多いんですよ」

 

その言い回しに、胸がわずかに強く打つ。

ソファに深く座り直しながら、私は画面を見つめる。

 

「人は無意識に、手で“触れてはいけないもの”に触れてしまうことがあります」

 

そう言いながら、霊能者が説明のために、

ゆっくりと手をこちらに向けた。

その瞬間。

ぼーっとしていた頭が、一気に切り替わる。


——アレだ。


画面越しでもはっきり分かる。

薬指が曲げられ、

その上に親指が重なり、

残りの三本の指が、揃って立てられている。

かえるちょっぷの手だ。

息が止まる。

リビングの音が、一拍遅れて遠くなる。

霊能者はそのまま話し続けている。

 

「これはですね……“持ち帰る側”の手なんですよ」

 

何を持ち帰るのか。

誰のものを。

その先の言葉が、耳に入らない。

脳裏に、凛の顔が浮かぶ。

左腕。

あの夜。

三つのルール。

それは、遊びの手じゃなかった。

「別のナニカ」だと言われた、あの形。

私は、無意識に自分の手を膝の上で握りしめていた。

手の甲が、じんわりと熱い。

テレビ画面では、霊能者の手が、まだカメラに向けられている。

まるで、こちらを指しているみたいに。

 

偶然だ、と言い聞かせようとする。

けれど、あの手の形だけが、

どうしても偶然で済まされない輪郭を持って、

脳の奥に残り続けていた。


リビングは明るい。

テレビもついている。

家族もすぐそばにいる。

それでも私は、

あの夜に開いてしまった場所が、

確実に、今もどこかにつながっていると――

はじめて、はっきり理解してしまっていた。


霊能者は、言葉を切るようにして、もう一度自分の手を上げた。

今度は両手を使って、ゆっくりと形を作っていく。

まず、薬指を折り、親指を重ねる。

残りの三本の指を立てる。

 

——かえるちょっぷと同じ手。 

 

私は、息を詰めたまま画面を見つめる。

けれど、次の動作ではっきりと違いが示された。

霊能者は、その両手を甲同士で合わせなかった。

代わりに、手のひらを内側に向け、

立てた三本の指同士を、静かに――触れ合わせる。

まるで、祈るような形。

 

「この形をですね」

 

霊能者は落ち着いた声で言う。

 

「カルマ チェーダと呼びます」

 

画面の隅に、カタカナでその言葉が表示される。

 

「“チェーダ”は切る、断つ、という意味です。

つまりこれは、“業を断つ”ための形」

 

私は、背もたれに体を預けたまま、動けなかった。

 

「人が知らずに背負ってしまったもの。触れてしまった災い。

そういったものを、戻すのではなく、断つための作法です」

 

霊能者は、三本の指をくっつけたまま、続ける。

 

「災いから身を守る、

悪い縁をここで止める、

そういう意味合いになります」


霊能者の手は、まだ画面の中央にある。

三本の指を寄せたまま。

まるで、

本来こうすべきだった、と今になって教えられているみたいだった。


霊能者は、少し間を置いてから、続けた。

 

「で、ですね」

 

そう言いながら、今度は手の向きを変える。

さきほど指同士を寄せていた両手を、ゆっくりと反転させ――

手の甲同士を、合わせる。

見覚えのありすぎる形。

胸の奥が、ひくりと鳴る。

 

「この形になると、さっきの“死拍手”と同じで、

意味がまったく別のものになるんですよ」

 

霊能者は、ためらいもなく言う。

 

「こちらは――カルマ チョルプ」

 

画面の端に、その言葉が一瞬だけ表示される。

 

「これは、業を......業を背負う、業をつな――」

 

ぷつんと音を立てて、チャンネルが切り替わる。

その言葉が、最後まで発せられることはなかった。

 

「はいはい、もう十分怖いでしょ」

 

母の声がする。

画面には明るいバラエティ番組が映っていた。

甲高い笑い声と、軽い音楽。

 

「寝る前にこんなの見ないの」

 

そう言って、母はリモコンをテーブルに置く。

何事もなかったみたいに。

リビングの空気が、一気に現実に戻る。


テーブルに置かれたリモコンを、ほとんど反射みたいにつかみ取る。

母が視線を戻すより早く、さっきのチャンネル番号を押した。

画面が一瞬暗くなり、別の映像に切り替わる。

さっきの番組は心霊写真特集に移っていた。

スタジオの雰囲気も、さっきまでとは違う。

緊張を煽る音楽。画面の下に並ぶテロップ。

さっきの話題には、もう戻らなかった。

 

「次はこちらの写真です」

 

司会者の声。

画面いっぱいに、集合写真が映し出される。

続きを見る余裕はなかった。

 

頭の中で、言葉が勝手につながり始める。

カルマ・チョルプ。

かえるちょっぷ。

音が、似ている気がする。


カルマ・チョルプ。かえるちょっぷ。カルマ・チョルプ。かえるちょっぷ。

 

二つの言葉が、

耳の奥で、同じ形をして響いていた。


「チョルプ」と「ちょっぷ」。

外国語だと笑って流せそうなのに、

耳に残る響きが、どうしても一致してしまう。


——背負う。

——つな......ぐ?

 

リビングは明るい。

テレビもついている。

母も、すぐそばにいる。

それなのに、私は、自分だけが一歩違う場所に立ってしまった気がした。

画面の中では、別の写真が映されている。

でも、そのどれを見ても、

さっき見た手の形が、目の奥に焼き付いて離れない。

私は、そっと自分の手を見下ろす。

指を折らなくても、

もう、形を思い出せてしまう。

凛は、今、何をしているだろう。

本当に、明日、学校に来られるのだろうか。

リモコンを握る手に、知らず力が入る。

 

——もし、あれが名前だけ変わった同じものだとしたら。

——もし、あの夜に凛が何かと繋がってしまったとしたら。

 

テレビの中の霊能者の言葉は、もう聞けない。

けれど、

途中で遮られた続きを、私は勝手に理解してしまっていた。


そう思った瞬間、

背中を、冷たい汗が伝っていった。

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