第十三話
黒板も、机の並びも、朝のざわめきも、昨日までと何も変わらない。
それなのに、胸の奥に、すとんと穴が空いたみたいだった。
凛の席の椅子は引かれたまま、机の上には、何も置かれていない。
教科書も、ペンケースも、昨日まで確かにあったはずのものが、きれいに消えている。
......休みなんだ.。
そう思おうとする。
風邪とか、体調不良とか、寝坊とか。
どれでもおかしくないはずなのに、その考えがうまく胸に落ち着かない。
周りから、楽しそうな声が聞こえる。
誰かが笑って、
別の誰かが席を移動して、
いつもの軽い冗談に、いくつもの声が重なる。
その音が、今日はやけに大きく感じられた。
明るすぎる。
凛がいないだけで、教室がこんなふうに見えるなんて、自分でも意外だった。
それ以上に、不安がじわじわと広がってくる。
連絡は、来ていない。
先生からも、まだ何も説明はない。
席に座って、ノートを出す。
ペンを握っても、指に力が入らない。
ただの欠席かもしれない。
すぐ戻ってくるかもしれない。
それでも、心のどこかで、
「それだけじゃない」
という感覚が消えなかった。
凛のいない学校は、何かが静かに抜け落ちたみたいで、
その空白を、周りの楽しそうな声がいっそう目立たせていた。
チャイムが鳴る。
ざわめきが、次のざわめきに上書きされる中で、
私は凛の席から目を離せないまま、
時間だけが進んでいくのを感じていた。
不安だけが、はっきりと、そこに残っていた。
ぱしん。
乾いた音がして、反射的にそちらへ視線を走らせた。
教室の後ろのほう。
数人が集まって、何かをやっている。
——かえるちょっぷだ。
そう思った瞬間、胸の奥がざわつく。
でも、すぐに何かがおかしいと気づく。
叩いているのが――自分の腕じゃない。
腕を出している子をその向かいにいる友達が、ぱしん、と叩いている。
「えー、なにそれ」
「いたっ」
軽い笑い声。
どこにでもある、放課後の遊びみたいな空気。
でも——
手の形が、違った。
見慣れない形。
私たちがやっていたものとは全然違う。
ぱしん。
もう一度音がする。
今度も、何も起きない。
セミの声も消えないし、空気も変わらない。
……そうだ。
これが、普通だ。
そう理解した途端、喉の奥がひゅっと狭くなる。
同じ名前で呼んでいるのに、
同じ音がしているのに、
やっていることは、まるで別物だった。
「……」
私はその場から目を離せずにいた。
もし凛がいたら、何て言っただろう。
あの手の形を見て、どう思っただろう。
でも、凛はいない。
ぱしん、という音と、楽しそうな笑い声が重なる中で、
私だけが、その違いを、はっきりと見てしまっていた。
——私たちのかえるちょっぷは、
最初から、ここにある遊びとは違っていた。
そう気づいた瞬間、背中を冷たいものが、ゆっくりと伝っていった。
少し迷ってから、私はその輪に近づいた。
凛以外では、学校の中で比較的よく話すグループだった。
「ねえ、それって……かえるちょっぷ?」
声をかけると、叩いていた子がこちらを見て、あっさり答える。
「そうだよ」
やっぱり、という気持ちと、どこかちがうという感覚が同時に胸をよぎる。
「かえるちょっぷの手って、こうじゃなかったっけ」
そう言いながら、私は片手を上げる。
薬指を曲げて、そこに親指を重ねる。
残った三本の指を、まっすぐ立てる。
見慣れた、自分たちの手の形。
それを見た友達は、一瞬きょとんとしてから、首を振った。
「違うよー」
そう言って、同じように手をこちらに向ける。
その手は、
薬指だけを曲げて、
残りの四本の指を、きれいに立てた形だった。
「ほら」
友達は、当たり前みたいに言う。
「カエルの手の指って四本でしょ」
笑いながら、私の手をちらっと見て、
「三本だったらさ、それ、別のナニカだよ」
その言葉が、軽く吐き捨てられる。
教室のざわめきの中で、
友達の笑い声が、やけに遠くに聞こえた。
——違う。やっぱり、違っていた。
名前は同じなのに、
音も同じなのに、
指の一本だけで、決定的に分かれてしまう。
私は、自分の手を見る。
三本の指を立てたままの、その形を。
......別のナニカ。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
ぱしん、と、もう一度音が鳴る。
でも、今度は何も起きない。
それが普通で、
私たちのほうが、異常だった。
そう気づいてしまった瞬間、
凛のいない教室が、さっきよりもずっと広く、冷たく感じられた。
焦りが声に出ないよう、意識して息を整える。
「……ねえ」
早口にならないように、ゆっくり聞く。
「それって、ルールとかあった? 三つくらい。
最初に……おまじないみたいなの、なかった?」
友達は、きょとんとした顔で首を振った。
「ないない」
あっさり言って、笑う。
「そんな大げさなのじゃないよ」
そう言って、簡単に教えてくれた。
相手の腕に向かって、素早く――三回。
ぱし、ぱし、ぱし、とチョップする。
薬指だけを曲げて、当たらないようにするのがルールらしい。
「ほら、こう」
実際にやってみせる。
曲げた薬指が、小さく震えている。
「これ、意外と難しいんだよ。勢い出すと、つい当たっちゃうし」
「もし当たったら?」
「罰ゲーム」
当然みたいに答える。
「ジュースおごりとか、腕立て伏せとかね」
誰かが笑って、「薬指がプルプル震えるのが面白いんだよ」と口を挟む。
軽くて、何でもない遊び。
私はうなずきながら、もう一度、自分の手を見た。
――三回。
――罰ゲーム。
――おまじない、なし。
――薬指だけ、曲げる。
どれも、私たちのやっていたものと、少しずつ違う。
でも、決定的に違う。
「……そっか」
そう言うのが精一杯だった。
友達はもう次の相手に向き直って、
楽しそうに腕を差し出している。
ぱしん、ぱしん、と音が鳴る。
でも、何も起きない。
私は一歩、後ろに下がる。
胸の奥で、凛の言葉と、紙に書かれていたあの文字が、ゆっくり重なる。
――別のナニカ。
その意味が、言葉じゃなく感覚として、はっきりする。
同じ名前で呼ばれているだけで、
私たちのやっていたものは、最初からここにはなかった。




