第46話 御業
『世界よ……逆巻け』
爺さんが、今まで一度も聞いたことのない詠唱を口にする。
その詠唱によって、どんな事象が引き起こされるのかは知らない。いや、そんなことはどうでもいい、関係ない。
俺がこれから出来ることは、ただ一つしかないのだから。
――ダンッ!!!!
石畳の床を踏み砕き、一気に加速する。
まともな手段では到底到達できない、雷速の領域のさらにその先
その代償として、ただそこに在るだけの空気ですら身体を抉る凶器となり、全身の皮膚を引き剥がすように俺の肉体を蝕んでいく。
酸欠のせいか、それとも動体視力が限界を超えて追い付いていないのか。周囲の景色が、まるで水面に落とした絵の具のようにドロドロと曖昧に溶けていく。
一秒が永遠に感じられるほどに極限まで圧縮された地獄の中。
俺はただ、何千、何万、何億と繰り返してきた『基本の動き』を繰り出す。
何の変哲もない、ただの横薙ぎの一閃。
「雷切!!!!!」
血を吐くような咆哮と共に、全てを懸けた刃を振るう。
対するアレスは、抜刀術のポーズのままピクリとも動かない。
残り5メートル。
両足の筋肉と腱が完全にダメになり、上手く地面を蹴れなくなる。
だが、既に痛覚は無くなっていた。失われた推進力を慣性が補い、俺の身体は砲弾のように前へと突き進む。
アレスは、まだ動かない。
残り3メートル。
どうやら腕もダメになったようだ。刀を握っているという感覚そのものが、唐突に消失する。
だが幸いなことに、視界の端に映る鋼は、変わらずこの手にしっかりと握られているようだ。
アレスは、まだ動かない。
横薙ぎの一閃が、爺さんの首筋へと迫る。俺の人生そのものを薪にくべた、文字通り命懸けの奥義。
(勝てる……!!)
俺の刃が、あの理不尽に届く。勝利を確信した、その刹那だった。
俺の刀……いや。
刀を握っていた俺の『右手』が、まるで最初からこの世界に存在しなかったかのように、何処かへと消え去っていた。
痛みはない。血すら噴き出していない。ただ、そこにあるはずのものが『無い』。
アレスは――。
まだ、動いていなかった。
⬜⬜⬜⬜⬜
勢いを失った俺の身体は、完全にバランスを崩し、石畳の上を無様に転がるように倒れ込んだ。
頬に冷たい地面の感触が伝わってくる。
ぼやける目線の先、少し離れた場所に、刀を硬く握りしめたままの『俺の右手』がゴロリと落ちているのが見えた。
――ヒュンッ。
今頃になって、刀を鋭く振った時特有の風切り音が、アレスの立っている方から遅れて聞こえてきた。
(何が……起こった?)
思考が追いつかない。斬られた感覚すらなかった。気づいた時には、腕は根元から消え去っていた。
「天晴れじゃ……コナトス。過去、現在を通してワシに固有魔法を使わせたのは、お主が初めてじゃよ」
爺さんの静かな声が、闘技場に響く。
カチャリ、と納刀する時の冷たい金属音が鳴り、やがて足音が徐々に遠ざかっていく。
無茶苦茶だ。
何をされたのか、どんな力が働いたのか、それすらも理解させて貰えなかった。圧倒的すぎる格の違い。
だが……俺にしては、よくやった方だろう。
あの剣聖アレス・シュバートの人生の中で、固有魔法とやらを初めて引きずり出した相手。待ち望んだ『敵役』として、これ以上の幕引きはないはずだ。
だが……。
「何故……立ち上がる? 何故立ち上がれる?」
遠ざかっていた足音がピタリと止まり、爺さんが問い掛けてきた。
正直、俺にも分からない。
あそこで倒れ伏して終わっておくのが、一番綺麗な終わり方だった筈だ。これ以上続けても勝てる筈がない。ただの無駄なあがきであり、醜態を晒すだけなのだから。
それに……何故こんなボロボロの身体で立ち上がれるのだろうか。
自分の身体が今どういう状態なのかさえ定かじゃない。右腕以外は無事なのか、それともどこか他の部位も千切れてしまっているのか、それすらも分からないほど感覚は麻痺しきっている。
「もういい!! コナトス!! これ以上は!!」
頭上の観客席から、涙混じりに叫ぶアラタの声が聞こえてきた。
見なくても分かる。どうせあのお人好しのことだ、今にも観客席から飛び出して、俺と爺さんの間に割って入ろうとしている寸前だろう。
俺は残された左腕、震える手の平をアラタの方へ真っ直ぐに向け、「来るな」という強い意志を示す。
ああ、そうか。今さら気づいた。
俺は、爺さんの『敵』でありたいと願う気持ちと、同じくらい。
アラタの頼れる『味方』でありたいのだ。
だから……意識があるうちは、この肉の塊が動くうちは、最後まで足掻きたい。
俺は、もはや感覚のない足を引き摺りながら、一歩、また一歩と、振り返った爺さんへと近づいていく。
「コナトス……もういい」
足を止めた爺さんの口から漏れたのは、狂気でも歓喜でもなく――今まで一度も聞いたことがないほどの、ひどく悲痛な声だった。
あの血も涙もない、理不尽の化身みたいな爺さんが、こんなひどく人間臭い、しけた顔をするなんてな。
千切れる寸前の肉体を引き摺り、血だまりの中に泥臭い足跡を残しながら、俺はついに爺さんの目の前へと辿り着いた。
呼吸が交わるほどの至近距離。
だが、爺さんはピクリとも動かなかった。刀に手をかけることも、構えを取ることもなく、ただ静かに、その悲痛な眼差しのまま俺を真っ直ぐに見つめ返している。
俺は、鉛のように重い残された左腕を、ゆっくりと、だが力強く振りかぶった。
筋肉は悲鳴を上げ、ただの意地と執念だけで強引に動かしているだけの、ひどく遅くて、弱々しい拳。
それでも俺は、己の人生の全てを乗せて、爺さんの頬目掛けてその拳を放った。
――ドスッ。
鈍く、不格好な音が静まり返った闘技場に響いた。
避けることなど、瞬きをするよりも容易かったはずだ。爺さんからすれば、止まって見えるほどの遅撃だっただろう。
だが、爺さんは一切躱そうとはせず、俺の拳を真っ向から、その顔面で受け入れた。
殴りつけた左手の拳から、微かな熱と痛みが伝わってくる。
「一本……てか?」
喉の奥から絞り出した掠れた声で、俺は精一杯の不敵な笑みを作ってみせた。
爺さんは、殴られた頬をそのままに、微かに目を伏せると、低く、重々しい声で答えた。
「ああ」
その短くも確かな肯定の言葉を聞いた瞬間。
俺の魂を繋ぎ止めていた最後の糸が、プツリと切れた。
急速に視界がブラックアウトしていく。
前に傾く身体を支える力は、もはや一欠片も残されていなかった。
俺の意識は、そこで完全に途絶えた。
⬜⬜⬜⬜⬜
「最終戦は、10分後じゃ」
静寂に包まれた闘技場に、アレスの重く、低く、感情の読めない声が響いた。
それだけを言い残し、彼は倒れ伏したコナトスを一瞥することもなく、踵を返して通路の奥へと消えていく。
「コナトス!!」
僕は弾かれたように立ち上がり、観客席のフェンスを乗り越えた。
「アカリ!!!」
「ええ、分かっています!!」
僕の叫びに呼応するように、アカリも迷いなく飛び降りる。
着地と同時に僕たちは全速力で闘技場の中央へと駆け出した。
「コナトス……ッ! しっかりしろ!」
仰向けに倒れた彼に近寄り、僕は息を呑んだ。
遠目からでも酷いと分かっていたが、近くで見ると直視に堪えない有様だった。無理な肉体強化で全身の皮膚は焼け焦げ、あちこちの骨が皮膚を突き破り、致命傷と呼ぶべき傷が無数に刻まれている。
「すぐに治癒を開始します」
アカリがコナトスの傍らに膝をつき、両手を翳した。
彼女の手から放たれた温かく眩い光が、コナトスの身体を包み込む。肉が再生し、砕けた骨が繋がり、焼け焦げた皮膚がみるみるうちに元の滑らかさを取り戻していく。アカリの規格外の治癒魔法だ。
これなら、すぐに助かる。
「これは……」
しかし、治療の途中で、アカリが不意に顔を顰めて呟いた。
「アカリ……腕も……治るよね?」
切断された右腕の断面を見つめながら、僕は縋るように尋ねた。彼女の力なら、欠損した腕の一本や二本、簡単に元通りにできるはずだ。
「ええ。斬られた腕程度、何本でも治してみせますよ。けど……これは」
アカリはスッと両手を下ろし、治療を中断した。
コナトスの身体の傷は既に綺麗に癒え、呼吸も落ち着いている。
しかし、右腕は無いままだった。
「この腕は……『既に正常な状態』なんです。そして……私の力では、正常なものは治せない」
アカリが悔しそうに唇を噛み締める。
コナトスの右腕に目を向ける。そこには出血もなく、肉がちぎれたような生々しい断面すらなかった。
まるで、彼が生まれつき右腕を持たない人間であったかのように、肩のところで滑らかに、不自然なほど完璧に皮膚が塞がっていたのだ。
「これは……」
「推し量るに、『限定的な事象の改変』といったところか」
背後から、低く重みのある声が降ってきた。
振り返ると、いつの間にかシュピーゲルさんが静かに立っていた。
「事象の……改変?」
「ああ分かり易く言えば、対象との間合いや硬度、そして自分の動作といった斬る上で必要になる条件を無視する魔法だろう。」
「……そしてたちの悪いことに『どうやって斬るか』まで自由が効くらしい。」
シュピーゲルさんはコナトスの右腕、正確には右腕があった筈の部分を一瞥した。
「……」
「完全な初見殺しだ。何にせよ、本番の前に知れて良かったな。あの力について情報があるのとないのとでは、大きな違いだ」
シュピーゲルさんは、ただ淡々と事実だけを口にした。
「そんな言い方……!」
まるでコナトスが情報収集の捨て駒だったかのような言い草に、僕は思わず声を荒らげた。
「事実だ」
だが、シュピーゲルさんは一切悪びれることなく言い切り、そのまま屈み込んでコナトスの身体をそっと、壊れ物を扱うように持ち上げた。
「とりあえず医務室へ運ぼう。心配しなくとも命に別状は無いはずだ。お前は……聖女様と最終戦に備えておけ」
そう言い残し、シュピーゲルさんは静かに歩き出す。
「プロデューサー……」
アカリが心配そうに僕を見上げてくる。
「アカリも……コナトスを診てやってくれる? 僕は大丈夫だからさ」
少しだけ無理に笑って見せると、アカリは深く頷いた。
「……分かりました。どうか、御武運を」
アカリはそう言い残し、小走りでシュピーゲルさんの背中を追いかけていった。
遠くで傍観していたゴレムさんもそれに着いていく。
闘技場に残されたのは、僕と、そして少し離れた場所で遠巻きにこちらを見つめているセイヴィアだけになった。
僕はゆっくりと立ち上がり、彼女の方へと歩み寄る。
「セイヴィア……」
「何?」
「一つ、頼みがあるんだ。」
彼女は首を傾げ、いつものように真っ直ぐな瞳で僕を見つめ返す。
「次の戦い……僕一人でやらせて欲しい」
「……どうして?」
「英雄としてじゃなく、カガミ・アラタとしてあいつに勝ちたい。」
僕の言葉に、セイヴィアは目をまん丸にして驚いた。
「バカなことを言ってるのは分かってる。でも……」
「いいよ」
「え?」
あまりにも即答だったので、僕は思わず間の抜けた声を出してしまった。
「いい……のか?」
「うん。だって、アラタがそうしたいんでしょ? だったらそれ以上の理由なんて無いし、必要ないよ」
セイヴィアは、ふわりと柔らかく微笑んだ。
そこにあるのは、僕という存在を無条件で肯定し、背中を押してくれる絶対的な信頼だった。
「ありがとう……セイヴィア」
「その代わり……アラタが死んだら、ボクも死ぬからね」
冗談めかした口調の中に、微塵の揺らぎもない本気の覚悟を込めて彼女はそう言い放った。
「本当に……僕のことをよく分かってるね。」
「当然だよ。ボクは君のお姫様だから。」
⬜⬜⬜⬜⬜
最終戦は10分後、そう言い残しアレスが姿を消してから、約束の時間が迫っていた。
セイヴィアの言葉を胸に刻み、僕は一人、静まり返った闘技場の中央に立つ。
やがて、冷たい石畳を打つ下駄の音が、闘技場の奥から近づいてきた。
時間きっちりだ。
「ん? セイヴィア殿はどうしたんじゃ?」
姿を現したアレスは、僕が一人で立っているのを見て、怪訝そうに眉をひそめた。
「……」
僕は何も答えず、ただ静かに老人の姿を見据える。
「一騎討ちというのは言葉のあやで……ああもう面倒くさい。早くセイヴィア殿を連れて参れ」
アレスが苛立ったようにため息をつき、手をひらひらと振って要求した。
「必要ない」
僕は短く、はっきりと告げた。
「……正直、聖女様抜きの英雄殿にはあまり興味がないんじゃが」
アレスの瞳から、あからさまに熱が失われていく。
「聞こえなかったのか? 必要ない。」
僕は一歩、前へと踏み出した。
「試合前にごちゃごちゃと。……話なら、『俺』が勝った後にゆっくり聞いてやるよ。」
『王子様』の仮面を被った僕の言葉が、冷たい闘技場の空気を切り裂く。
その言葉を聞いた瞬間、アレスはピタリと動きを止め――。
「クッ……ハッハッハッハッ」
腹の底から、腹を抱えるようにして笑い声を上げた。
「確かに、これはワシが悪い。戦場に立った戦士を前に失礼じゃったの」
笑い声をスッと収め、アレスは刀を抜き、自然体でスッと構えた。
途端に、先程まで消え失せていた凄まじい威圧感が、再び闘技場を支配し始める。
「もはや開始の合図すら無粋じゃな。さあ英雄殿、最終戦……もとい、試練を始めようか。」
アレスの口の端が、三日月のように吊り上がった。
凍るような緊張感の中で、僕は静かに息を吸い込む。
そして、己の奥底で眠る力――アカリの固有魔法の影響により再び3回まで使用を許された『再現』の魔力を発動させる。
「憑依・アレス」
静かな呟きと共に
鏡が今、剣神の御業をその身に映し出す。




