第45話 解なき道
背中に向けられたアラタの心配そうな視線を感じながら、俺は薄暗い闘技場の通路へと足を踏み入れた。
「心配要らねぇよ。……観客席でおとなしく観てな」
先程、あのお人好しに向けて吐いた強がりの言葉が、冷たい石壁に反響するように俺の頭の中で何度も木霊する。
口ではあんな風に笑ってみせたが、本当は誰よりも俺自身が一番よく分かっているのだ。
俺では、あの爺さんには勝てない。
あの屋敷を飛び出して、泥水をすすり、死に物狂いで自分を鍛え上げた数年間。手に無数の豆を作り、皮が破れ、肉が裂け、骨が悲鳴を上げてもなお剣を振り続けた。
その果てに、変えようのない残酷な現実として気づかされたことがある。
俺には……剣の才能がない。
全くなかった訳ではない。そこら辺のチンピラや、名を馳せている程度の剣士ならば容易く圧倒できるくらい、人並み以上の才覚はあった。
しかし、それでは足りないのだ。
あの『理不尽』には、どれだけ命を削っても絶対に届かない。
限界を超えて身体を鍛え上げる度、血反吐を吐いて死線を越える度に、思い知らされる。
『まだ足りない』
どんなに手を伸ばしても、あのバケモノが立つ遥か高みには指先すら掠らないという、暗い淵を覗き込むような絶対的な絶望。
「全く……情けない話だ」
ひんやりとした石壁に手をつき、俺は自嘲気味に呟いた。
だが……それでいい。
俺は、あの爺さんに『勝ちたい』訳ではないのだから。
爺さんが求めているのは、ただ己の剣を昂ぶらせ、未知の境地を見せてくれる存在。
ならば俺は、爺さんの待ち望んだ最高の『敵』になる。あの男の人生に、ほんの一瞬でも驚きと感動を刻み込むための、ただの障害でいい。
そして、敵は敵らしく――あの圧倒的な理不尽の前に、華々しく散ってやるのだ。
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薄暗い通路を抜け、光の差し込む闘技場の舞台へと戻る。
待つこと、10分きっかり。約束通り、闘技場の奥から下駄の音を響かせ、アレスがゆっくりと歩み出てきた。
「一番槍はコナトスか」
爺さんが目を細め、口の端を歪めて言う。
「ああ」
「最後通告じゃ。本当にワシと戦うんじゃな?」
爺さんのその問いに、俺は鼻を鳴らした。この期に及んで、何を言っているんだ。
「くどいな。あんたらしくもない」
「……確かにそうじゃな。悪かった」
爺さんはあっさりと非を認め、肩の力を抜いた。
「では、死合いを始めようか。開始の合図は……そうじゃのぉ」
爺さんは顎に手を当てて少し考え込んだ後、頭上の観客席を見上げた。
「おーい、ゴレム殿」
「何でしょうか?」
呼ばれたゴレムさんは、高い観客席からふわりと飛び降り、足音一つ立てずに石畳へと着地してこちらに向かって歩いてくる。
「開始の合図を頼むぞ」
近づいてきた彼に、爺さんがそう丸投げした。
「はいはい。全くゴーレム使いが荒いですね」
淡々と文句を言いながらも、ゴレムさんは俺と爺さんの間に立つ。
そして、俺の方を向き、すれ違いざまにそっと耳打ちをしてきた。
「コナトスさん……どうかお気をつけて」
いつもは感情の読みづらい無機質な彼の声に、今は微かな温度が宿っていた。
「ああ」
短く返し、俺は爺さんを真っ直ぐに見据える。
「試合前の最後の確認だが、俺が勝ってもアラタ達の指名手配は却下されるんだよな?」
「ああ、その辺は抜かりないぞ。ちゃんと契約を結び直しておいた」
「なら良い」
これでもう、未練も心配事も何一つない。
舞台を、冷たく張り詰めた静寂が支配する。風の音すら消え失せたかのようだった。
観客席で固唾を呑むアラタ達の気配すら、極限まで集中した今の俺にはひどく遠く感じられた。視界には、目の前に立つ『理不尽』しか映っていない。
「それでは僭越ながら開幕の宣言をさせていただきます」
ゴレムさんが右手を高く上げる。
「試合……開始!!!!」
振り下ろされた手が風を切る。
その瞬間、俺は己の命を削る覚悟で、全力の魔術を爆発させた。
『雷よ……纏え!!!!』
開幕と同時に、雷魔術による身体能力強化を全開で発動させる。
――バチィィィィンッ!!
視界が白むほどの紫電が全身を駆け巡り、細胞が焼き切れるような凄まじい激痛が走る。筋肉の繊維が限界を超えて悲鳴を上げ、全身の骨がミシミシと嫌な音を立てて軋む。肉の焦げる匂いが鼻腔を突いた。
だが、まだ足りない。これだけでは、あの化け物には届かない。
雷の過負荷に悲鳴を上げる肉体に、俺はさらに無属性魔術による身体能力強化を強引に重ね掛けする。
ブチッ、と全身の毛細血管が弾け飛ぶ音がした。両目から、鼻から、そして噛み締めた唇からどす黒い血が溢れ出す。
無属性魔術が肉体強度を無理矢理高めていく。そしてそれを上回る速度で身体が崩壊へと突き進む。
リミッターを完全に破壊して限界のさらに先へと押し上げる二重の強化。致死の激痛が、逆に俺の意識を極限まで研ぎ澄ませていった。
才能のない俺が、あの理不尽に届くためだけに編み出した、文字通り自らの命を薪にくべて放つ、ただ一つの術。
凡人の一振
「不器用だと……笑うか?」
全身から狂い咲くような雷光を迸らせ、血を吐くような負荷に耐えながら、俺は歯を食いしばって爺さんに問うた。
しかし、爺さんの目に嘲笑の色はなかった。
「いや……美しい」
それは、今まで見たこともないほど真摯な、ただ純粋な一人の『剣士』としての眼差しだった。
「お主のそれはまさしく極致。 認めよう、それは……一つの到達点じゃ」
爺さんが、スッと腰の刀を鞘に納め直す。抜刀術の構え。
その瞬間、闘技場を満たしていた威圧感がさらに幾回りも膨れ上がり、周囲の空気がぐにゃりと陽炎のように歪み始めた。圧倒的な殺意と魔力が渦を巻き、呼吸すら困難になるほどの重圧が俺を押し潰そうとする。
「身内だからと手を抜いては、それこそ失礼じゃのぉ」
狂気の剣聖が、深く、重く息を吸い込む。
「故に、ワシも一つの到達点を魅せよう。最大限の礼儀と敵意をもって」
そして、静かに、だが天地を揺るがすほどの覇気を伴って、その絶望の詠唱は紡がれた。
『世界よ……逆巻け』
凡人と天災、相反する二人の剣使はただ、答えのない道を突き進む。




