第44話 理不尽
見上げるほど巨大な石造りの門を潜ると、そこはすり鉢状になった広大な空間だった。
観客席には、誰一人としていない。しかし、何万という群衆から見下ろされているかのような異様な重圧が空間全体を満たしていた。
すり鉢の底にあたる闘技場の中央、そこにポツンと一つの人影が見える。
いや、立っているのではない。その人影は、石畳の上に仰向けに寝そべっていた。
「……グォォォー」
近づくにつれて、闘技場に似つかわしくない規則正しい音が聞こえてくる。
大の字になり、イビキをかきながら気持ち良さそうに眠る老人――アレス・シュバートだ。
「もしかして……寝てる?」
これから『死合い』をしようという相手を前に、まさかの無防備すぎる姿。僕は呆れを通り越して間の抜けた声を漏らしてしまった。
「本当に癇に触る人ですね」
アカリがジト目でアレスを睨みつけ、心底忌々しそうに吐き捨てる。
「まあまあ」
いつものようにゴレムさんが淡々とした声で宥めたが、その肩は少しだけ呆れたように下がっていた。
「と、とりあえず起こそうか」
僕はため息をつき、アレスを起こす為に近づこうと、闘技場の舞台となる石畳へと足を踏み出した。
――その時だった。
「待て、近づくなッ!」
鋭い声と共に、コナトスが僕の腕を強く掴み、乱暴に後ろへと引っ張った。
「え?」
突然の力に体勢を崩した僕の視界の端で、信じられない光景が繰り広げられた。
アレスは、イビキをかいて大の字で寝そべったまま、わずかに身を捩ったかと思うと、腰の刀を抜刀し、無造作に振り抜いたのだ。
目すら開けていない。ただ寝返りを打つような、あまりにも無造作で、滑らかな一振り。
――ヒュンッ!!
空気を切り裂く音などという生易しいものではない。空間そのものが悲鳴を上げたような異音が響く。
アレスの剣の軌跡は、そのまま不可視の『歪み』となって、恐るべき速度でこちらに向かって飛んできた。
「……ッ!!」
避ける暇などなかった。
横一線に放たれた陽炎のような歪みは、僕の頬を僅かに掠め、背後へと突き進んでいく。
直後、背後からズガァァァンッ!! という凄まじい轟音が響き渡った。
「な!?」
慌てて振り返った僕の目に飛び込んできたのは、分厚い石造りの観客席が、まるで豆腐でも切られたかのように斜めにスッパリと両断され、崩れ落ちていく光景だった。
これだ。
これが昨日、街中でアレスから最初に受けた『挨拶』という名の洗礼の正体。
戦いにおいて「間合い」というのは、非常に重要な要素だ。
剣道三倍段……いや、剣術三倍段か。たしか、剣術がリーチの長い槍術と互角に相対するには、三倍の技量が必要であるということを意味する言葉。
戦いについてそこまで詳しいとは言えない僕でさえも知っている、至極当然の物理的な法則。武器が届かない距離にいれば、斬られることはない。
だが、あの老人の剣術は、そんな当たり前の常識を完全に無視している。
数十メートル離れた場所から、寝転がったままの無造作な一振りで、強固な石造りの観客席を容易く両断してみせた。
間合い無視の即死の斬撃。
それこそが、剣聖アレス・シュバートが到達した『理不尽』の正体。
「む? あっすまん! ケガはないか!?」
轟音で目を覚ましたのか、アレスがガバッと飛び起き、目をぱちくりとさせながらこちらへ問い掛けてきた。
「あ、ああ、大丈夫だ」
先程までの理不尽すぎる斬撃を放った直後とは思えない、近所の好々爺のような軽いトーンに、僕は毒気を抜かれたように答えてしまった。
「おい、爺さん。その寝てる時に近づいた物を斬る癖、どうにかならねぇのか?」
コナトスが心底呆れた様子でため息をつく。
「無理じゃな。生活の中で染み付いた癖はなかなか消えん」
アレスは頭を掻きながらカラカラと笑った。
(……どんな生活をしてたら、こんな物騒な癖が染み付くというのだろうか?)
寝込みを襲われるのが日常茶飯事だったのか、それとも無意識下でも剣を振るうほど剣に狂っているのか。どちらにせよ、まともな神経をしていないことだけは確かだ。
「あちゃー、死合い前だというのに観客席をダメにしてしまったのぉ」
崩れ落ちた巨大な石造りの観客席を振り返り、アレスはわざとらしく額に手を当てた。そして、何かを思いついたようにポンと手を打つと、僕の後ろにいるアカリへと視線を向けた。
「そうじゃ! アカリ殿、確か無機物でも治せたじゃろう? 悪いが治しておいてくれ」
まるで割れた皿の修復でも頼むかのような気軽さで、アレスは要求した。
「……今の私では無理ですね。他を当たって下さい。」
アカリは冷たく言い放ち、ぷいっと顔を背けた。
(今の私では……?)
その言葉のニュアンスに、僕は少し引っ掛かりを覚えた。まるで「昔は出来た」と言わんばかりの口ぶりだ。彼女の魔法は、人間だけでなく建物すらも元通りにできたというのだろうか。
「なんじゃ、使えんのぉ」
アレスが、無神経の極みとも言える言葉をポロリとこぼした。
「……やっぱり私は、貴方が嫌いです」
アカリが顔を引きつらせ、ギリッと奥歯を噛み締める音が聞こえてきそうなほどの低い声で睨みつけた。
「気が合うな。ワシも嫌いじゃよ、お主、しぶといだけの雑魚じゃからな」
アレスはニヤリと底意地の悪い笑みを浮かべ、かつて自らの手で殺した「聖女」に向かって平然と言い放った。
「………」
その瞬間、アカリの表情がスッと「無」に戻った。
怒りが一周回って限界を突破したのだろう。一見静かだが、その背後には見えない業火が渦巻いているのがはっきりと分かる。まさに爆発寸前だ。
「まあまあまあ、観客席は私が治しておきますから」
一触即発の空気を察し、すかさずゴレムさんが両手を前に出しながら仲裁に入った。本当にありがたい。
「そうか。じゃあよろしく頼む」
アレスはあっさりと引き下がると、刀を鞘に納めた。
「死合い開始は10分後にしよう。ワシはトイレに行ってくる」
これだけ空気をかき乱しておいて、まるで草野球の休憩にでも入るかのような気の抜けきったセリフを残し、狂気の剣聖はふらふらと闘技場の奥へと去っていった。
嵐が去ったような闘技場に、奇妙な静寂が降りてきた。
「……本当に無茶苦茶だな。」
呆気にとられる僕の横で、ゴレムさんが「さて」と短く呟き、両断された観客席へと歩み寄る。
彼女が瓦礫に向かって淡々と手をかざすと、ズズズッという重い音と共に、巨大な石の塊がまるで時間を巻き戻すかのように空中に浮かび上がり、ピタリと元の断面へと吸い込まれていった。
ヒビ一つ残らない完璧な修復。
(やっぱり、全員規格外だな……)
改めて代行者たちの異常性に冷や汗をかきつつ、僕は隣で俯いているアカリへと向き直った。
「アカリ、その……大丈夫?」
「……ええ。至って冷静ですよ、プロデューサー」
声のトーンは平坦だが、握りしめた両手の拳が微かにワナワナと震えている。癒しの聖女らしからぬ、物理的な鉄拳制裁でも下しかねないオーラだ。
「まあ……気を取り直して、予定通り一番槍は俺で良いか?」
横から、コナトスが声をかけてきた。
彼の顔にはもう迷いも強がりも感じられなかった。死線を前にした、戦士としての本能だけが鋭く研ぎ澄まされている。
「あ、ああ……うん」
僕が頷くと、コナトスはニヤリと不敵に笑った。
「そんじゃあ俺も少し準備してこようかね」
そう言って、コナトスも闘技場の奥に向かって歩き出す。
「あ、ちょっと待って、コナトス」
僕は彼を呼び止めようと手を伸ばす。だが、コナトスは振り返らなかった。
彼は歩みを止めず、背中を向けたままヒラヒラと手を振った。
「心配要らねぇよ。……観客席でおとなしく観てな」
その背中は、どこまでも頼もしく、そして……ひどく遠く見えた。
「……分かった」
僕は伸ばしかけた手を下ろし、小さく呟く。
今は彼を信じるしかない。それが、戦場に立つ彼への最大の敬意だ。
僕はゴレムさんが修復してくれた観客席へと向かい、これからの死闘を見届けるための席についた。




