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第32話 血統

 熱気と喧騒を取り戻したギルドの酒場。ジョッキが打ち鳴らされる音とざわめきが満ちる中、コナトスさんが戻ってきたのは、彼が店を飛び出してから数分もしない内のことだった。

 

 しかし、席に戻ってきた彼の様子は明らかに異様だった。外の冷たい夜風に晒されていたはずなのに、彼の額にはびっしょりと脂汗が滲み、その顔からは血の気がすっかり失せている。

 

 微かに震える足取りでテーブルへ近づくと、ドサリと重い音を立てて椅子に崩れ落ちた。


「一体どうしたんですか!?」

 

 たまらず身を乗り出して問いかける。ただごとではないその姿に、僕の声は思わず上ずっていた。


「……少し、野暮用にな」

 

 コナトスさんは視線をすっと逸らし、荒くなった呼吸を悟られまいとするかのように短く誤魔化した。テーブルの上に置かれたままのジョッキを無造作に見つめるその瞳の奥には、未だ拭いきれない恐怖の残滓がどろりと揺らめいている。


「……剣聖との間に何かあったんですか? さっきも爺さんって」

 

 腑に落ちない僕は、先ほどの異常な光景を思い出しながらさらに踏み込んだ。あの絶対的な存在に対して、コナトスさんは確かにそう呼んだのだ。

 

 ただの知り合い同士とは思えない、血の滲むような深い因縁を感じずにはいられなかった。


「何でもない」

 

 コナトスさんは再び短く返す。まるで、自らの心を必死に縛り付けるかのように。


「何でもないわけ――」

 

 あんなに取り乱して飛び出していったのだ、何もないはずがない。僕がさらに問いただそうと語気を強めた、その時だった。


「何でもない……本当に何でもない話なんだ」

 

 静かに言葉を遮ったその声は、不自然なほど、ひどく優しい声色だった。

 

 だが、言葉とは裏腹に、コナトスさんの全身から放たれるひんやりとした張り詰めた空気が、僕の追及を物理的な壁のように弾き返した。

 

 それは、深く昏い、他者を完全に拒絶する気配。肌を刺すようなその重圧に僕は喉を詰まらせ、これ以上彼に踏み込むことができなくなってしまった。

 

 気まずく、重苦しい沈黙が僕たちのテーブルだけを支配する。周囲の喧騒が、まるで遠い世界のことのように感じられた。

 

 やがて、コナトスさんはテーブルに手をつき、軋むような動きでゆっくりと立ち上がった。その背中は、見慣れたはずの頼もしい姿よりもひどく小さく、ひび割れたように疲弊して見えた。


「悪い……先に帰る」

 

 それだけを言い残し、コナトスさんは逃げるようにギルドをあとにしようとする。


「待って下さいよ!!」

 

 引き留めようと手を伸ばしたその時、僕の肩に優しく手が置かれた。振り返ると、ゴレムさんが「追うな」とでも言うように、静かな瞳でゆっくりと首を横に振っていた。


 賑やかな酒場の喧騒の中、僕はぽつんと立ち尽くし、ただ黙って一人遠ざかっていくその背中を見送ることしかできなかった。



⬜⬜⬜⬜⬜

 


 コナトスさんが去った後、僕たちの間の空気はすっかり冷え込んでしまった。それまで熱気に包まれていた祝勝会も、もはや宴の続きを楽しむような雰囲気ではなくなり、なし崩し的にお開きとなってしまった。

 

 外へ出ると、夜の冷気が火照った肌を撫でる。セイヴィアは深い夜の闇を見つめながら、ぽつりと口を開いた。


「……ボクは、一度シュピーゲルを探しに行ってくるよ」

 

 そう言い残し、セイヴィアは足早に街の影へと消えていった。

 

 残された僕とアカリは、鉛のように重い足取りのまま、それぞれゴレムさんに借りている部屋へと戻るしかなかった。

 

 自室に戻りベッドに横になっても、コナトスさんの青ざめた顔と、あの拒絶するような冷たい空気が頭から離れなかった。目を閉じると、彼が抱え込んでいる底知れぬ闇のようなものが瞼の裏にちらつき、寝返りを打つたびに不安が胸を締め付ける。一向に眠気が訪れる気配はなかった。

 

 深夜。どうしても彼のことが頭から離れず、僕は静かにベッドを抜け出してゴレムさんの部屋を訪ねた。

 

 控えめにドアを叩くと、ゴレムさんはまだ起きていたようで、静かに僕を招き入れてくれた。僕の顔を見ただけで、彼には僕が何を求めてやってきたのか分かっていたのだろう。


「本当は……本人の口から直接聞くのが一番なんですけどね」

 

 湯気の立つ温かい飲み物を差し出しながら、ゴレムさんは深くため息をつき、コナトスさんについて語り始めた。マグカップから伝わる温もりが、冷え切った僕の手のひらにじんわりと染み込んでいく。


「コナトスさんは、アレスの養子なんですよ」


「……えっ?」

 

 予想だにしていなかった言葉に、僕は思わず間の抜けた声を漏らした。あの剣聖と、コナトスさんが義理の親子?


「驚きますよね。私も最初聞いたとき驚きました。剣の道にしか興味の無かった男が、一体どういう風の吹き回しだったのかと」

 

 ゴレムさんは少し遠い目をして、過去の記憶を探るように静かにそう言った。


「それがどうして……あんな感じに」

 

 僕の脳裏に、昨夜のコナトスさんの姿が蘇る。脂汗を流し、恐怖に怯えるように息を乱す姿。親子の再会にしては、あまりにも歪で、痛ましい光景だった。


「私の口からは何とも」

 

 ゴレムさんは伏し目がちに首を横に振った。彼なりの配慮なのか、それとも本当に彼にも踏み込めない深い事情があるのか。


「どうしても聞きたいなら、明日直接聞きに行くのがいいでしょう。……まあ、素直に教えてくれるとは思いませんが」


「……ですよね」

 

 あのひどく優しい、けれど絶対的な拒絶の壁を思い返せば、普通に尋ねたところで口を開いてくれるはずがないのは明白だった。僕が力なく項垂れると、ゴレムさんはその温厚な顔に真剣な眼差しを宿し、こちらを真っ直ぐに見た。


「ですから、一つ提案です」

 

 ゴレムさんの提案は、一歩間違えれば取り返しのつかない驚くべきものだった。だが同時に、殻に閉じこもった今の彼をこじ開けるには、僕たちに残された唯一の方法のようにも思えた。



⬜⬜⬜⬜⬜

 


 翌日、僕はアカリを連れて、ゴレムさんが指定した街外れの修練場へと向かった。

 

 空が白み始めたばかりの朝の冷たい空気の中、そこには既に鋭い風切り音が何度も響き渡っていた。ゴレムさんの言う通り、コナトスさんが一人で剣の訓練をしていた。

 

 朝霧を切り裂くその剣筋は、いつも彼が見せている無駄のない飄々としたものとは全く違っていた。ただひたすらに乱暴で、焦燥感に駆られ、まるで自らの心を削り、痛めつけるかのような危うさと悲痛さを帯びている。

 

 ざくりと砂を踏む僕たちの足音に気づくと、コナトスさんはピタリと動きを止め、こちらを振り返った。

 

 乱れた前髪の隙間から覗くその瞳には、昨夜から続く底知れぬ疲労と、獣のような警戒心がまだ生々しく張り付いている。


「……何の用だ」

 

 低く、地を這うように人を遠ざける冷たい声。

 

 思わず足が竦みそうになる。だが、ここで引くわけにはいかなかった。あんな痛々しい剣を振るう彼を、これ以上一人にしておくわけにはいかないのだ。

 

 僕はぎゅっと拳を握り込み、冷たい空気を肺の奥底まで大きく吸い込んだ。そして、彼の拒絶の瞳を真っ直ぐに見据えて、腹の底から声を振り絞った。


「コナトスさん……貴方に決闘を申し込みます」


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