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第31話 答え合わせ

 俺はたまらず席を蹴り立ち、喧騒と熱気を取り戻しつつある酒場を後にして、凍てつくような夜風が吹きすさぶ裏路地へと飛び出した。


「コナトスさん!?」

 

 背後から追ってくるジョン……いや、アラタの制止の声が鼓膜を打つが、構わず石畳を蹴り出す。肺に吸い込む冬の空気が痛い。だが、それ以上に名状しがたい焦燥感が俺の胸を焼いていた。

 

 街灯の僅かな光すら届かない暗がりの中、あの分厚い背中がゆっくりと闇に溶け込み、遠ざかっていくのが見えた。俺は無意識に爪が食い込むほど拳を強く握りしめ、その背中めがけて声を張り上げる。


「待てよ……爺さん!!!」

 

 その声に、剣聖アレス・シュバートはピタリと足を止めた。彼は振り返ることなく、肩越しに路地の冷気よりもはるかに冷ややかな視線だけを俺に向ける。


「何か用かコナトス?……まさかまだあの下らない『約束』に執着しておるのか?」

 

 呆れたような、ひどく冷淡な声。歴戦の攻略者として死線を潜り抜けてきた俺の矜持など、この男という絶対的な壁の前では赤子のように無力だ。


 それは誰よりも俺自身が一番よく理解している。それでも、額に滲むひんやりとした嫌な汗を拭いもせず、俺はひび割れたように乾いた唇を無理やり開いた。


「ああ……そうだ。俺はまだ、あんたの敵になることを諦めて……」


『極致・相抜け』

 

 俺の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。

 

 アレスの口からこぼれ落ちたその短い呟きと共に、世界の位相が反転した。呼吸という生体機能すら強制的に停止させられるほどの、圧倒的で濃密な殺気。それが目に見えない巨大な質量となって、俺の全身を容赦なく圧殺しにかかってきたのだ。

 

 彼が剣を抜いた訳ではない。アレスはただそこに立っているだけだ。だというのに、俺の脳髄には己の「明確な死」のビジョンが克明に、そして生々しく焼き付いていた。

 

 首筋に、氷のように冷たく鋭い鋼の感触が、確かに張り付いている。ほんの数ミリでも身じろぎすれば、即座に頸動脈を裂かれ、俺の首は呆気なく胴体から滑り落ちるだろう。


 それは単なる恐怖や錯覚ではない。最強の剣聖が放つ覇気そのものが作り出した、逆らうことの許されない絶対的な「死の事実」だった。


「言ったはずじゃ……あんな下らない約束は忘れろと。それにその様子じゃ、やるだけ無駄じゃろう」

 

 全身の筋肉を硬直させ、脂汗を流して立ち尽くす俺を、まるで路傍の石ころでも見るかのように一瞥すると、アレスは完全に興味を失ったように背を向け、再び深い闇の中へ立ち去ろうとする。

 

――行かせるな。

 

 幻の刃が首の肉に食い込む致命的な感覚に絶叫しそうになるのを、奥歯を噛み砕くほどの力で耐え抜く。死の恐怖で竦み、地面に縫い付けられたかのように重い鉛の足を、俺は悲鳴を上げる筋肉を無視して無理やり引き剥がし――一歩、前へと踏み出した。


「その様子じゃ……何だって?」

 

 絞り出した声は、自分でも嫌になるほど惨めに震えていた。それでも、これは俺の意地だった。最強の剣士の背中にすがりつくような、精一杯の、そして死に物狂いの強がりだった。

 

 ガツン、と靴底が石畳を鳴らす音を聞いて、アレスの足が止まった。

 

 振り返った彼の顔には、先程までの冷酷な絶対者の面影は消え、代わりに微かな驚きの色が浮かんでいた。やがて彼は、ひどく呆れたように、けれどどこか嬉しそうに目元の皺を深めた。


「本当に……不器用な男じゃな」

 

 そして、アレスは夜の闇の奥から、今度こそ路傍の石ではなく、一人の剣士として俺を真っ直ぐに見据えて告げた。


「良いじゃろう、3日後英雄殿と共に来るがよい。決着を着けよう」

 

 それだけを言い残し、剣聖は今度こそ振り返ることなく、闇の中へと完全にその姿を消していった。

 

 彼の気配が消滅し、首筋にへばりついていた死の感触がフッと霧散した瞬間――俺の身体を辛うじて支えていた見えない糸がプツリと切れた。


「……っ、はぁ、はあっ……!!」

 

 両膝から急速に力が抜け、俺はその場に無様にへたり込んだ。石畳の凍えるような冷たさを掌に感じながら、俺はただ、全身から噴き出す汗を流し、ひどく荒い呼吸を繰り返すことしかできなかった。



⬜⬜⬜⬜⬜

 


 ギルドの喧騒から分厚い石壁を隔てた裏路地。冷たい月明かりすら、高い屋根に遮られて届かない完全な死角。

 

 一つの影が、衣擦れの音さえ立てずにギルドの勝手口へと忍び寄っていた。闇に溶け込む装束に身を包んだ暗殺者だ。手にした刃は毒に濡れ、月光の欠片すら反射しない。標的である英雄――あるいは聖女の命を刈り取るべく、淀みない足取りで距離を詰めていく。

 

「……ずいぶんと物騒な夜遊びだな」

 

 暗闇から不意に声が落ちた。

 

 暗殺者が弾かれたように振り返ると、そこには鉄兜の男――シュピーゲルが、壁に背を預けて静かに佇んでいた。

 

 気配など微塵もなかった。いつからそこにいたのか。まるで、最初からその空間の闇の一部であったかのように、あまりにも自然に彼は「在った」。


「どこの国に雇われた? いや……この問答も無意味か」

 

 異常なまでの実力差を本能で悟ったのか、暗殺者は短い舌打ちと共に、即座に己の得意とする魔術の詠唱に入る。迎撃ではなく、一撃離脱。極限まで高めた速度でこの場を脱出するためだ。


『風よ…纏え』!!

 

 暗殺者の声に応え、大気が急激に収縮する。疾風が暗殺者の身体を包み込み、その姿を不可視の暴風へと変えようとした――まさに、その瞬間だった。


『却下する』

 

 シュピーゲルの口から紡がれた、あまりにも短く、酷薄なまでに無機質な一言。

 

 たったそれだけで、暗殺者の周囲で渦を巻きかけていた風は、まるで目に見えない巨大な手に握り潰されたかのように、空間を軋ませる破裂音と共に無惨に霧散した。


「な……っ!?」

 

 魔術の構成を理不尽に、そして強制的にキャンセルされた反動。さらに、絶対の自信を持っていた生存のための術を単なる一言で打ち消された驚愕。

 

 暗殺者の動きが、ほんの一瞬――いや、死線を生きる彼らにとっては永遠にも等しい時間、致命的に硬直した。

 

 その数秒の隙を、シュピーゲルが見逃すはずもなく。

 

 闇が、揺れた。

 

 シュピーゲルの姿がブレたかと思うと、彼が元いた場所には残像だけが残り、本物は既に暗殺者の背後に立っていた。何の変哲もない、ただ極限まで洗練された足運びから繰り出される刃の一閃。

 

 暗殺者は、自らの頸動脈を正確に切断した刃の冷たさにすら気づくことなく、糸が切れた操り人形のように音もなく石畳へと崩れ落ちた。断末魔を上げる暇すら与えられない、完全なる瞬殺劇。

 

「……俺に何の用だ?」

 

 月明かりの差し込む場所へ歩み出たシュピーゲルは、血の滴る刃を無造作に振るって汚れを払うと、何もないはずの闇に向かって問いかけた。


「驚いた……完全に気配は絶っておったのじゃがな」

 

 濃密な闇の一部が唐突に剥がれ落ちるようにして、剣聖アレスが現れた。


「……気配を探るのは得意なんでな。それで剣聖様が何故ここに? あの時の再戦をしに来た訳じゃないだろうな?」


 シュピーゲルは手にした刃をわずかに遊ばせながら、静かに間合いを測る。相手は武の極致。一瞬でも気を抜けば、先程の暗殺者と同じ末路を辿るのは自分の方だということを、誰よりも理解しているからこその探り合いだった。


「戦う気はない。ワシはただ答え合わせをしに来ただけじゃよ」


 アレスは腰の剣に手を掛けることもなく、ただ静かにシュピーゲルを見据えた。その眼光は、強者を求める剣士の鋭さではなく、深淵を覗き込もうとする探求者のように昏く、底知れない。


「お主……ダンジョンの最下層に何があるか知っておるじゃろ?」


 唐突な問い。しかし、その穏やかな声色には、逃れようのない確信が張り付いていた。


「何故そう思う?」


「勘じゃ」


「…………」


「まあよい。その反応で大体分かった」

 

 そう言い残し、剣聖は足音一つ立てず、再び夜の底へと去っていく。シュピーゲルは引き留めることもなく、ただ無言でその背中が完全に闇に溶け込むのを見送った。


「ダンジョンの最下層に何があるか……か」

 

 一人残されたシュピーゲルは、血の匂いが微かに漂う路地で独りごちた。


 相変わらず言葉選びが下手な男だ。剣聖などという仰々しい称号を戴いたと聞いたときは、少しは社交性を身につけたものだと思っていたが、昔と何一つ変わっていない。

 

 『何があるか』ではない。

 

 なんせ、あの牢獄にはもう――『何も無い』のだから。


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