第30話 剣客
その夜、酒場の一角は、僕たちのささやかな祝勝会の会場となっていた。
先ほどの息詰まるような控え室の空気から一転、テーブルには香辛料の食欲をそそる匂いと共に湯気を立てる山盛りの肉料理と、黄金色に輝くエールがなみなみと注がれたジョッキが所狭しと並べられている。
周囲の喧騒に負けじと、ゴレムさんの重低音の笑い声が腹の底まで響き、コナトスが上機嫌でジョッキを高く掲げていた。アカリもすっかりいつもの可愛らしいアイドルの顔に戻り、頬を紅潮させながら無邪気な笑顔で場を和ませている。
ふと、テーブルの空席に気づき、僕は隣で静かにグラスを傾けるセイヴィアに尋ねた。
「そういえば、シュピーゲルさんは?」
「さあ、ほとぼりが覚めたらひょっこり出てくるんじゃない?」
セイヴィアはグラスの縁を見つめたまま、氷のように冷たい声で言い放った。その目にはまだ微かに怒りの残滓が燻っており、シュピーゲルさんがこの場にいたら即座に串刺しにされかねない物騒な気配だ。僕は彼のためにも、これ以上触れないでおくことにした。
それからは、五人で和気あいあいと他愛のない会話を楽しんだ。ゴレムさんの豪快な武勇伝にツッコミを入れ、コナトスさんの失敗談を笑い飛ばし、アカリが次のステージの構想を熱っぽく語る。
先ほどまでの重く血生臭い感情を一時だけ忘れさせてくれる、暖炉の火のように心地よくて温かい時間だった。
――だが、その温もりは唐突に断ち切られた。
「それはいいのぉ。しかしあの時の盛り上がりは、なかなかお目に掛かれるもんじゃないぞ。」
五人しかいないはずのテーブルの端から、底知れぬ凄みを帯びた嗄れ声が這い寄ってきた。決して大きな声ではないのに、周囲の喧騒を突き破って鼓膜に直接響くような異様な音だった。
いつの間にか、そこに『彼』は座っていた。僕たちが誰一人としてその気配に気づかないまま、まるで最初からその席で一緒に酒を飲んでいたかのように自然に。
そこにいたのは、岩のように鍛え上げられた体躯を持つ剣士――剣聖アレス・シュバートだった。彼は自分のグラスを傾けながら、面白そうに深く刻まれた皺の奥の目を細めている。
「……相変わらず、いつの間にかふらっと現れる人ですね。貴方は」
アカリがアイドルとしての柔らかな笑みを完全に消し去り、隠す気のない警戒心をぶつける。その声には、かつての張り詰めた冷たさが混じっていた。
「そういうお主は変わったのぉ。あのお主の姿、感情のない元『癒しの聖女』様とはとても思えぬよ」
剣聖が喉を鳴らして笑う。
「爺さん……何でここに」
コナトスさんが顔を引きつらせ、呻くように言った。歴戦の冒険者である彼の額には、にわかに脂汗が浮かび、微かに声が震えている。
「久しぶりじゃのぉコナトス」
瞬間、テーブルの空気が完全に凍りついた。一触即発のヒリついた緊張感が、僕たちの周囲だけを外界から切り離すように支配する。
「随分とタイミングがいいじゃん」
セイヴィアが、椅子に座ったまま油断なく重心を落とし、アレスを鋭く睨みつけた。彼女の全身の筋肉が、いつでも飛びかかれるようバネのように収縮している。
その殺気立った視線を真正面から受けても、剣聖は飄々とした態度のままカラカラと笑った。
「本当はもっと早くに来てたんじゃがのぉ。あまりにも面白……大変そうじゃったから来るタイミングを遅らせただけじゃよ。」
完全に「面白そうだったから覗き見していた」と口を滑らせた剣聖に、セイヴィアの堪忍袋の緒が切れた。
チリッ、と静電気が弾けるように空気が鳴る。次の瞬間には、セイヴィアが抜き放った白刃が、剣聖の喉元スレスレに突きつけられていた。刃先が皮膚に触れるか触れないかの、絶望的な距離。
しかし、剣聖は瞬き一つせず、自らの命を奪いかねないその剣先をまるで道端の木の枝か何かのように一瞥すると、両手を軽く上げて降参のポーズをとった。
「落ち着け聖女殿。今回は伝言を伝えに来ただけじゃよ。」
そう言って、剣聖はゆっくりと僕の方へと視線を向けた。その瞳の奥に宿る、決して老いることのない純度の高い剣士の光に、射すくめられたように思わず息を呑む。
「英雄殿とシュピーゲル殿の聖女誘拐による指名手配は、現在保留になっておる。」
その言葉に、僕とセイヴィアは僅かに目を見開いた。
「主要国家間で意見が割れてのぉ。すぐにでも英雄殿を捕らえて聖女様の命を捧げるか、それとも予言の絶対性に委ねて傍観するか」
静かな声だが、その内容はあまりにも重い。大国同士の血みどろの政治的思惑と、僕たちが引き起こした事態の波紋が、今まさに世界を二分しようとしている。僕たちの命運が、見えない巨大な天秤の上で揺れ動いているのだ。
剣を構えたまま、セイヴィアが苛立たしげに問う。
「それで結局要件は何なのさ?」
剣聖はグラスをテーブルにコトリと置き、それまでの飄々とした好々爺の空気を完全に拭い去った。その瞬間、空間の温度が急激に下がった錯覚に陥った。闘気を纏った『剣聖』としての圧倒的な威圧感が、目に見えない無数の針となって僕たち全員の肌をチクチクと刺す。
彼はニヤリと、猛獣が獲物を前にしたような好戦的な笑みを浮かべ、はっきりとこう告げた。
「英雄殿にワシとの一騎討ちを申し込む。3日後、場所はエペ共和国の闘技場じゃ」
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エペ共和国での一騎討ち。
あまりにも唐突な宣言に、僕の思考は一瞬白く染まり、テーブルの空気は再び泥のように重く沈み込んだ。周囲の席からは相変わらず酔客の陽気な笑い声やジョッキのぶつかる音が聞こえてくるが、僕たちのテーブルだけが分厚い氷の壁に覆い尽くされているかのようだ。
セイヴィアの白刃は未だ剣聖の喉元に向けられ、彼女の手首は怒りで微かに震えているが、剣聖は全く意に介する様子もない。ゴレムさんもコナトスさんも息を殺し、アカリに至っては不安げに僕の袖を血の気が引くほどきつく握りしめていた。
「指名手配とあなたとの一騎討ちに……一体、何の関係性があるんですか?」
僕は喉の奥のひどい渇きを堪えながら、目の前の剣聖に問いかけた。僕たちの指名手配を保留にすることと、彼との決闘。その二つがどう考えても結びつかない。
「国に対するワシの我が儘じゃ。英雄殿がワシに勝つようなことがあれば、英雄殿からは手を引け、とな」
剣聖は悪びれもせず、酒の追加でも頼むかのような事も無げな口調で言ってのけた。
「よく……そんな我が儘が通りましたね」
聖女誘拐という、国家間の存亡や思惑が絡み合う重大な事案だ。一個人の我儘でどうにかなる問題ではないはずだ。信じられない思いで呆然と呟く僕に、剣聖はその瞳の奥から、ゾッとするほど冷たい、刃そのもののような光を放った。
「当たり前じゃ。ワシは『最強』じゃからな。要望が通らぬなら、全員切り伏せるだけのこと」
その言葉には、一切の誇張も驕りも感じられなかった。ただ、世界を絶対的な力でねじ伏せてきた者だけが持つ、純粋で残酷な事実だけがあった。
彼が本気で剣を抜けば、王宮の近衛兵であろうと、名だたる騎士団であろうと、等しく血の海に沈む。それを諸国の首脳陣も痛いほど理解しているからこそ、この理不尽な提案を呑まざるを得なかったのだ。背筋を這い上がる悪寒に、僕は思わず拳を握りしめた。
しかし、そう言い放つ剣聖の横顔には、強すぎる言葉とは裏腹に、どこかぽっかりと穴の空いたような虚しさが張り付いていた。
頂点に立ち続ける者だけが知る、血の匂いしかしない氷の玉座。強すぎるが故に、誰も彼を真に脅かすことができないという果てしない絶望と孤独。彼がこれほどまでに僕との決闘に執着する理由は、きっとそこにあるのだと直感した。
「ああ……安心するといい。口約束などではない。ちゃんと全員と『契約』を結んできたからの。ワシを倒せれば、お主らは晴れて自由の身じゃ」
ふっと虚無の表情を拭い去り、剣聖はゆっくりと立ち上がった。重い木製の椅子が床を擦って軋む音が、妙に大きく響く。彼はセイヴィアの鋭い剣先を指の背で軽く払い除けると、僕の目を真っ直ぐに射抜いた。
「さあ……随分と待たされたが、あの時の約束を果たして貰おう」
その瞬間だけ、剣聖の瞳に少年のように純粋な闘志の炎が揺らめいた。それは、権力者の道具でもなく、最強という重圧を背負った怪物でもない。ただひたすらに死力を尽くせる好敵手との殺し合いを渇望する、一人の狂おしい剣士としての顔だった。
それだけを言い残し、剣聖は踵を返した。彼が歩みを進めるたび、喧騒に満ちた酒場の客たちが、その身から漏れ出る異様な覇気に当てられ、無意識のうちに言葉を失い、怯えたように道を譲っていく。
まるでモーゼの海割れのようにしてできた不気味な道を通り抜け、剣聖の分厚い背中は夜の闇の中へと静かに溶けていった。
酒場の重い扉が閉まる音が響く。彼が去った後、不自然に途切れていた周囲の喧騒が、せき止めていた水が決壊したかのように再び僕たちの席になだれ込んできた。
しかし、僕たちのテーブルには重く冷たい沈黙だけが残された。セイヴィアが苛立ちとともに舌打ちをし、剣を鞘に納める硬質な音が、ささやかな祝勝会という温かい幻を完全に打ち砕き、僕たちを再び過酷な現実へと引き戻す合図のように響き渡った。




