第2話 タブラ・ラーサ
「ケガはない? 立てる?」
差し伸べられた白皙の手。僕は、目の前にしゃがみ込む少女の、人間離れした美しさに呆然としていた。宝石を丁寧に研磨したような紅い瞳が、心配そうに僕を覗き込んでいる。
返事もできずに固まっている僕を見て、彼女は僕が致命的なケガをしているのだと勘違いしたのだろう。
「待ってて、今治してあげるから!」
彼女は慌てて腰のポーチから、透き通ったエメラルド色の液体が揺れる小瓶を取り出した。それを僕に振りかけようとしたところで、ようやく僕は我に返り、両手を振って彼女を制止した。
「いや……ごめん。 大丈夫、ケガはないんだ。ちょっと、色んなことが一気に起こりすぎて、頭が追いついてなかっただけで……」
僕がそう伝えると、彼女は「良かったぁ~」とはにかむように笑い、大袈裟に胸を撫で下ろした。その仕草の一つひとつが、まるで精巧に描かれた絵画のように美しい。
「ボク、てっきり君を巻き込んじゃったのかと思ったよ。……ところで、君は何でダンジョンに? 見たところ珍しい服だけど、装備って感じじゃないし。攻略しに来たわけじゃないでしょ?」
ダンジョン? 今、彼女は確かにそう言った。
湿った岩肌、歪で巨大な黒蟻、そして魔法のような無数の剣。ここは僕の知る世界ではない――創作の世界でよく見たいわゆる「異世界」なのだと、肺を満たす冷たい空気が容赦なく教えてくれる。
先ほどまですべてを終わらせるつもりだったはずなのに、いざ未知の状況に直面すると、生き物としての防衛本能が働くらしい。僕は内心の動揺を必死に押し殺し、怪しまれないよう拙い嘘を編み上げた。
「……実は、遠いところから攫われてきて。用済みになったから、ここで処分されそうになっていたんだ」
所々で言葉が詰まり、視線が泳ぐ。我ながら酷い嘘だと思ったが、彼女は「……なるほどね」と眉を寄せた。
「確かに、ダンジョンでモンスターに襲わせれば証拠は残らないもんね。奴隷商が必要なくなった『商品』によくやる手口だよ。」
信じてくれた。というより、この世界ではそれが「日常的」な悪意なのだろうか。奴隷、商品、処分。聞き慣れない単語の響きに、この世界の治安の悪さが透けて見え、背筋が寒くなる。
「何はともあれ、助かって良かった。帰り道も危険だし、ボクが送るよ!」
◻️◻️◻️◻️◻️
湿った洞窟を抜け、光の差す方へ歩いていくと、視界が一気に開けた。
「ここが世界最大の国、ノースフィールド王国だよ!」
彼女が誇らしげに腕を広げた先には、見たこともない壮大な光景が広がっていた。
石造りの堅牢な建物が連なり、遠くからは馬の蹄が石畳を打つ乾いた音がリズムを刻んでいる。見上げた空には、まだ明るいというのに二つの月が淡く並んで浮かんでいた。
ここが正真正銘の異世界であることを、元の世界ではあり得ない光景が確信に変えていく。
……ふと、僕は先ほどまでいた『ダンジョン』の入口が気になり、振り返った。
「なんだ……これ?」
そこに鎮座していたのは、天を突くような超巨大な「門」だった。
驚くべきことに、その門の裏側には何もない。ただの巨大な扉が、虚空に自立しているのだ。中から出る時は魔法陣のような光の上に立ったら一瞬で外に出たが、入る時はこの門に触れたらいいのだろうか?
そして何より気になるのは街の中にこんな危険な場所の入口があることだ。尋ねると彼女は
「モンスターは基本、あの中から出てこれないから大丈夫だよ」と笑った。
基本という言葉に僅かな引っ掛かりを覚えたが、今の僕にそれを追求する余裕はなかった。
彼女に案内されながら街を歩く。
西洋の古都を思わせるレンガ造りの街並み、活気に満ちた屋台の喧騒、香辛料の混じった肉の焼ける匂い。
周囲の人々が僕達をジロジロと見てくるのは、この黒髪と黒目、そしてTシャツにジーンズという格好が、この国では異質すぎるからだろうか?
そんな中、僕はある「違和感」に気づいた。
(……文字が、読める?)
並ぶ看板の文字が、スラスラと頭に入ってくる。そこに書かれているのは、紛れもない「日本語」だった。
なぜ、異世界の中心で僕の母国語が使われているのか?
思考の海に沈みかけていると、彼女が顔を覗き込んできた。
「それにしても、キミって……あ、そういえばまだ名前を聞いてなかったね」
「加が……新・加上です。アラタで大丈夫」
「アラタ、か。珍しい名前だね。目と髪の色もそう。黒目で黒髪なんて、ボク初めて見たよ。アラタはどこの国の人なの?」
またもやピンチだ。僕は脳細胞をフル回転させ、再び「もっともらしい嘘」を練り上げる。
「……実は、言っても伝わらないくらい遠い場所から来たんだ。そのせいで、こっちの常識が全然分からなくて。良かったら、色々教えてくれないかな?」
今度は詰まらずに言えた。目は泳いでいた気がするけれど。
「なるほどね。それじゃあ、まずはさっきのダンジョンの説明からしようか。」
彼女の話によれば、あの門の先はこことは違う世界に通じているらしい。
現在でもわからないことが多く、遥か昔に突如出現したことと、全部で十層あり、最下層には人類にとって有益な「何か」があると言われていることしか分かっていないらしい。
そして現在は各国共同の攻略作戦が進み、人類は第九層まで到達しているようだ。
「第九層まで行ってるなら、あと少しで完全攻略じゃない?」
「いや、全然だよ。それはもう九年も前の話。今は、一歩も進んでないんだ」
彼女のトーンが、わずかに落ちる。
「殺されたんだよ。世界最強と言われたパーティー全員が……第九層の守護者に」
守護者。階層ごとに君臨する迷宮の主。
守護者は各地へ自由に出入りする権利と引き換えに、人類の通行を黙認したのだという。しかし、第九層の守護者だけは違ったようだ。
「そいつは別格だよ。挑んだ人間は、情報を残す隙もなく、全員が消された。それ以来、攻略作戦は凍結。今は、魔石や魔道具を拾いに行く『攻略者』たちが浅い階層をうろついてるくらいかな」
攻略者。
その響きは、すべてを失い、自ら命を絶とうとしていた僕にとって、奇妙な引力を持っていた。
元の世界での居場所を完全に失った僕。そして、攻略が凍結され、時間が止まったかのような迷宮。
浅い階層を宛てなくうろつくという彼らの姿が、まるで今の自分の空っぽな心と重なって見えたのだ。
死に場所を探しているのか、それとも、もう一度ゼロから生き直す理由を探しているのか。自分でも分からない。
ただ、白紙になったはずの心の奥底に、何かに縋るような小さな火が灯ったのを感じた。
「……その攻略者って、僕みたいな行く当てのないよそ者でもなれるのかな」
「誰でもなれるよ! 過去も国籍も関係なし。必要なのは実力と覚悟だけ」
彼女は僕の暗い声音を吹き飛ばすように、カラッと笑い飛ばした。その眩しさが、冷え切った心に少しだけ心地よかった。
「よし、せっかくだしギルドに行ってみよっか! アラタの最初の一歩、ボクが見届けてあげる!」
彼女の強引だけど温かいペースに乗せられ、僕は頷いた。
この時の僕はまだ、自分の抱える絶望が、この世界でどれほど残酷な形で引きずり出されることになるのか、知る由もなかった。
◻️◻️◻️◻️◻️
案内された「攻略者ギルド」の重厚な扉を開けると、そこは荒くれ者たちの熱気と安酒の匂いが充満していた。
傷だらけの鎧を纏った女戦士、顔に深い傷を持つ歴戦の男。そして、僕の身の丈の一・五倍はあるだろう巨漢たちが、己の背丈ほどもある大剣や斧を傍らに置いて談笑している。
「それじゃあ、受付で登録を済ませちゃおう!」
いつの間にか彼女は、深いフードを被って顔を隠していた。
不思議に思いながらも、僕は言われるがままに受付嬢との手続きを終える。
「一応、魔術適性も見ておこうか。受付さん、水晶を貸してもらえる?」
カウンターに出された透明な水晶に、僕は緊張しながら手をかざした。
刹那。水晶が内側から弾けるような、鮮やかな青色に発光した。
その深く澄んだ青は、周りの人間には美しい才能の輝きに見えたのだろう。
だが、僕の脳裏にフラッシュバックしたのはあの日、すべてを終わらせようと自ら身を投げた、冷たく暗い海の底だった。
(……息が、苦しい)
肺に海水が流れ込み、焼けるように痛む錯覚。
薄れゆく意識の底で、僕はあり得ない幻を見た気がした。血の気を失い、冷たい水の中をどこまでも沈んでいくカエデ。その亡骸を抱き寄せるようにして、僕も一緒に光の届かない暗闇へと落ちていく。
二人で水に溺れ、ただ静かに死んでいくような、ひどく息の詰まる絶望の光景。
麻痺していたはずの胸の奥が、氷水を流し込まれたように激しく痛み、僕はわずかに目を伏せた。
「おおっ! 水の魔術適性だよ! しかもこの輝き……かなりの才能があるね! これなら立派な攻略者になれるよ。なんならボクとパーティー組もうよ!」
青ざめる僕のことなど知る由もなく、彼女が自分のことのように跳ねて喜ぶ。受付嬢も「おめでとうございます」と微笑んで拍手してくれた。
誰かが僕のことで、こんなにも無邪気に喜んでくれるのはいつ以来だろうか。でも素直に喜べない。
そんな僕の背後から無骨な手が伸び、急に肩を万力のような力で乱暴に掴まれた。
「その青は、『才能』なんて生易しいもんじゃねぇ。ここじゃそれは『生贄』の適性って呼ぶんだよ。」
「……え?」
巨漢はニヤリと口角を吊り上げ、僕のTシャツの襟ぐりを、指一本でクイと持ち上げた。
「噂じゃ第九層の守護者は『水』を好むらしいぜ。それだけの才能のガキを捧げれば、次は機嫌が良くなって最下層に通してくれるかもなぁ。」
彼は僕を単純に脅しているのではない。淡々と、この世界の「残酷な効率」を説いているのだ。
僕が言葉を失っていると、男の視線は隣でフードを深く被っている彼女へと移った。
「で、そっちのボロ布を被った嬢ちゃんは、この『高価な商品』の飼い主か? 悪くない掘り出し物だが……パーティーに加えるなんてバカな真似は止せよ。代わりにこいつは俺が有効活用してやるからよ。」
そう言いながら男が下卑た笑みを浮かべる
「有効活用?無理でしょ。君じゃ9層に辿り着くことすらできないと思うけど。」
彼女があっけらかんといい放つ。その声色には相手を侮辱する意図も何も含まれていなかった。ただ事実を口にしただけ、しかしその言葉が場に重苦しい緊張をもたらす。
先に静寂を破ったのは向こうだった。
『風よ……撃ち抜けぇぇえ』!!
その言霊と共に、男の右手に風が渦巻く。
生成される嵐の弾丸、その凶弾が放たれるその刹那、彼女がそっと呟く。
「殺しちゃダメだよ。」
次の瞬間嵐の弾丸が霧散し、行き場を失った風圧で彼女のフードが捲れる。露わになった黄金の髪と、凛とした美貌。
「なっ!?」
男が驚愕に目を見開いた、その瞬間。
「――分かっている。」
冷たく鋭い声が響いたかと思うと、大男の巨体がまるで砲弾のように後ろへ吹き飛んだ。
凄まじい音を立てて壁に激突し、めり込む男。……人って、あんな速度で飛ぶものなのか?
「……頼むから、あまりあちこち出歩かないでくれ、『聖女』様。怒られるのは俺なんだぞ」
声の主は、大男のいた場所にいつの間にか立っていた。
その姿は、異様の一言に尽きる。
首から下は、仕立ての良い燕尾服を完璧に着こなした一流の執事。だが首から上は、一切の表情を拒絶する、のっぺりとした銀色の「鉄兜」を被っているのだ。
「ごめんってシュピーゲル」
彼女が、あまり申し訳なさそうにない声で謝る。
シュピーゲル。その名前に、なぜか少しだけ胸がざわついた気がした。
しかしそれ以上に、僕は彼が口にした言葉の重さに戦慄していた。
「……あの、今、『聖女様』って聞こえたんですけど」
恐る恐る尋ねると、彼女は悪戯っぽく微笑んで、スカートの裾をつまんで淑女の礼をしてみせた。
「そうだよ。言ってなかったっけ? ボクこそが鏡の聖女にして、ノースフィールド王国第三王女――セイヴィア・ノースフィールドだよ!」
……えぇ




