第1話「これはあなたを救う物語」
「どうしてお兄ちゃんは、いつもそうなの!!!」
突き放すような叫びと、乱暴に閉められたドアの鋭い音。その痛々しい残響が、僕と妹の最期の会話だった。
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視界を埋め尽くすのは、星の海のように波打つペンライト。鼓膜を震わせるという表現すら生ぬるい、会場全体を揺らす地鳴りのような歓声が肌を直接叩いてくる。
激しいダンスナンバーの最終コードが鳴り響き、幾筋ものレーザー照明がステージの中央で交差した。
激しいステップの余韻を消し、息の乱れを悟られないよう静かに呼吸を整える。そして僕はカメラの向こう側――目の前で熱狂する群衆へ向けて、鏡の前で何千回と練習した完璧な角度の微笑みを向けた。
汗に濡れた前髪を優雅にかき上げ、ゆっくりとマイクを唇に寄せる。
「今日も俺の舞踏会に来てくれてありがとうな。お姫様たち」
甘く、少しだけ吐息を混ぜた声。それが巨大なスピーカーを通して放たれた瞬間、観客席からは気絶するのではないかと思うほどの悲鳴が巻き起こった。
流し目を送りながら、客席の隅々にまで届くように手を振る。カメラの赤いランプを捉え、スイッチが切り替わるタイミングを計って小さくウインクを落とした。
視線の動かし方から、マイクを持つ指先の一ミリまで計算し尽くされたファンサービス。この狂騒の空間において、僕の本当の感情など誰にも必要とされていない。
だからこそカガミ・アラタは今日も、ファンが狂信的に望む『完璧な王子様』という仮面を被り、一分の隙もなく演じ切った。
しかし、楽屋に戻り、重厚な扉が閉まった瞬間、アラタの肩からふっと力が抜けた。
「……お疲れ様でした。」
キラキラとしたオーラは霧散し、そこに残ったのは、少し猫背気味の、どこか所在なさげな青年だった。
「お疲れ、アラタ。今日も最高だったわよ。さすが、私が惚れ込んだ才能ね。」
ソファーに深く腰掛けたプロデューサーが、満足げにワイングラスを傾けるフリをしてペットボトルの水を飲んでいる。
彼女は、両親を事故で亡くし途方に暮れていた15歳の僕を拾い上げた恩人であり、同時にこの虚構の世界に縛り付ける呪縛でもあった。
「……ありがとうございます。でも、僕なんて……ただ、言われた通りにやってるだけで……」
「出たわね卑屈モード。『俺』はどうしたのよ『俺』は。」
「すみません……それじゃあお疲れ様でした。」
「ちょっと!!」
背中に突き刺さる鋭い声を無視して、僕は逃げるように楽屋を後にした。
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「カエデ……少し、話があるんだ。」
傾きかけた西日が、ワンルームを感傷的なオレンジ色に染め上げる。
向かい合って座る小さなテーブルの上には、手持ち無沙汰に置かれたマグカップが二つ。時計の秒針が時を刻む音だけが、やけに大きく鼓膜を叩く。
僕は膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、ずっと胸の奥へと鎖で縛り付けていた想いを、一つ一つ、不器用な言葉にして吐き出した。
小説家になりたいという、捨てきれなかった夢。
それを今さらながら目指したいということ。アイドルという道と並行して進むという無謀で険しい道程になること。そして何より、またカエデに我慢をさせ、迷惑をかけてしまうかもしれないということ。
それでも……どうか、僕の我儘を許して、支えてほしいということ。
僕のたどたどしい告白を、カエデは俯いたまま、口を挟むことなくじっと聞いていた。
息を詰めるような静寂。彼女の膝に落ちた夕陽の影が、小刻みに震えていることに気づいた時――カエデは、両手で顔を覆い、堰を切ったように声を上げて泣き出した。
「……やっと、言ってくれた。お兄ちゃんが……お兄ちゃんの、本当の話をしてくれた」
指の隙間からポロポロとこぼれ落ちる雫。
その夜、僕たちは温かいお茶を淹れ直し、夜の静寂が白み始めるまで語り合った。
将来の夢、昔よく聴いていた懐かしい音楽のプレイリスト、最近カエデがハマっているという少しニッチな深夜アニメの話。
他愛のない言葉のキャッチボールをするたび、僕たちの間の透明な氷が溶けていくのが分かった。失われていた『兄妹の時間』が、鮮やかな色彩と確かな温度を伴って、この狭い部屋に戻ってきていた。
「ねえ……お兄ちゃん」
すっかり空になったマグカップを両手で包み込みながら、カエデがふと、悪戯っぽい上目遣いで僕を見た。泣き腫らした目はまだ少し赤いけれど、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「もし辛かったら、アイドル辞めてもいいからね。お金のことを気にしてるなら、私も高校行きながらバイトしたりするからさ」
「大丈夫だよ。アイドルは……まぁ色々と大変だけど、好きでやってるからさ」
僕は照れ隠しに頭をかきながら、少しだけ視線を逸らして答えた。すると、カエデは小さく鼻で笑い、呆れたようにため息をついた。
「……嘘つき。お兄ちゃん、根が完全にコミュ障の陰キャじゃん。家ではずっと本読んでるクセに」
「あの……ちょっと傷つくんですけど」
「一人称だって無理して『俺』とか言っちゃってさー。素のままじゃ照れくさくて、キラキラ王子様なんて演じれないんでしょ?」
「止めて!? 冷静に分析しないで!? 恥ずかしさで死にそうになるから!」
僕が慌てて顔を覆うと、カエデは腹を抱えてケラケラと笑い声を上げた。
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「………っ」
「また……この夢か。」
肺に残っていた温かな空気は、現実の冷気に触れた瞬間に凍りついた。
オレンジ色の夕陽も、カエデの照れくさそうな笑い声も、すべては僕の醜い執着が産み出した幻影に過ぎない。
「……シャワー、浴びよう」
誰に聞かせるでもない独り言が、冷たい壁に跳ね返って消えた。
重い体を引きずるようにして、ユニットバスの扉を開ける。
蛇口を捻ると、勢いよく水が流れ出した。
まだ温度の上がりきらない冷ややかな液体が、陶器のボウルを叩き、激しく飛沫を上げる。
「あ――」
その音を聞いた瞬間、心臓が跳ね上がる。
跳ねる水滴。透明な揺らぎ。
視界の端で、現実の浴室が歪み始める。
閉め切った浴室の湿度が、急激に重く、冷たく感じられた。
水は、ただの生活用水であることをやめ、底が見えないほど暗く、逃げ場のない水の塊へと変貌していく。
カエデの肺に入り込み、彼女の叫びを、未来を、存在そのものを飲み込んでいった死の抱擁。
(……やめろ)
耳の奥で、轟々と水音が鳴り響く。
カエデが最後に見たのは、こんな冷たい景色だったのか。
苦しくて、喉を掻きむしり、手を伸ばしても掴めるのは形のない絶望だけで。
自分の呼吸が、水中にいるかのように泡立ち、苦しくなる。
酸素が足りない。胸の奥が痛い。
「っ、げほっ……!」
喉の奥から、せり上がってくるものがあった。
カガミ・アラタという完璧な虚像が、内側からボロボロと崩壊していく。
冷たいタイルの床に縋り付き、胃の中にある『嘘』のすべてを吐き出すように、激しく嘔吐した。
「ぅ……あ、ぁ……っ」
せっかく胃に流し込んだ水すら、体が拒絶する。
涙で視界が滲み、床に散った水飛沫が、まるで自分を嘲笑う無数の瞳のように見えた。
シャワーヘッドから流れ続ける水音は、いつまでも止まない。
まるで、あの日から一歩も進めていない僕を、責め立てるように。
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「あ、あの……新曲の、サビの部分、すごく良かったです!」
「本当? 嬉しいな。君にそう言ってもらえるのが、一番の自信になるんだ。」
ーーキモチワルイーー
「今日の髪飾り、すごく似合ってる。また俺のところに見せに来て?」
「……もう無理、一生推す!!」
ーーキモチワルイーー
誰かの理想に応える度に自分が分からなくなる。きっと今の僕は『他者の理想』という器に注がれた水だ。器がなければ形を保つことすらできない。
果たしてそれは生きていると言えるのだろうか?
「ハハッ……本当に、気持ち悪い。」
カエデが死んだあの日から、僕の時計は止まってしまったのだろう。
世界は一瞬にして彩度を失い、モノクロームの静止画に成り果てた。
酒、タバコ。自暴自棄という名の泥沼に深く沈んでいく。
今の僕は自分を壊すことでしか上手く呼吸することができなかった。
「もう……どうでもいい。」
何をしても、どれだけ自分を傷つけても、胸にぽっかりと空いた巨大な空洞は決して埋まらない。
絶望が限界を超えて飽和したとある日の夜。僕は自分という存在を、高い崖の上から、妹の命を奪ったのと同じ冷たい水底へと投げ捨てた。
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……水の滴る音がする。
重い瞼を押し上げると、そこは湿った闇の底だった。
「ここは……どこだ……?」
肺に流れ込む空気はひんやりと冷たく、カビと腐葉土の混じった不快な匂いが鼻を突く。
意識をたぐり寄せる。僕は確かに、冷たい水へ向かって身を投げたはずだ。
「……ッ!」
不意に、地響きのような無数の足音が這い寄ってきた。
暗がりに目を凝らすと、そこには悪夢を具現化したような異形が蠢いていた。
「あれは……アリ……なのか……?」
洞窟の暗がりに蠢く、全長一メートルを超える異形。
それはただの巨大なアリでは無かった。漆黒の外骨格を持つ上半身に対し、腰から下は蜂そのもの。
膨れ上がった黄色と黒の縞模様の腹部が、まるで誰かが無理やり縫い合わせたかのように、不自然で粗雑な継ぎ目を持って接合されている。
その先端の針からは、粘液とともに不気味な紫色の光が漏れ出し、カチカチと顎を鳴らす音とともに、この世の終わりのような冒涜的な光景を形作っていた。
カチカチと不気味な顎の音が響く。
「……はは、あはは……」
逃げろ、と本能が警鐘を鳴らす。けれど、僕の心はひどく冷めきって、不思議なほど凪いでいた。
望み通りだ。ここでこいつらに無残に食い殺されれば、ようやくすべてが終わる。
死をもたらす黒い影が、僕の頭蓋を噛み砕こうと大顎を開いた、その瞬間――。
――キィィィィィィン!!
鼓膜を突き刺すような澄んだ金属音が空間を震わせ、暗い空から「光の雨」が降り注いだ。
それは、無数の剣だった。
迷いなく闇を切り裂いた剣群は、巨大蟻たちの硬い外骨格を紙切れのように易々と貫き、地面へと縫い止めていく。
絶命した魔物たちが、断末魔もなく黒い霧となって霧散していく。
再び静まり返った洞窟に残されたのは、墓標のように突き刺さった無数の輝く剣と、茫然自失の僕だけだった。
「そこの人、大丈夫――?」
背後から、透き通った鈴の音のような声が届いた。
振り返った先にいた『彼女』を見て、僕は息をすることすら忘れた。
しなやかに伸びた手足。
闇の中で自ら発光しているかのような、美しい黄金の髪。
そして何より、すべてを見透かすように爛々と輝く、宝石のような紅い瞳を持つ神秘的な少女。
「ケガはない? 立てる?」
差し伸べられた白皙の手。
その少女が浮かべたのは――あまりにも残酷なほどに、あの日の太陽のように眩しい笑顔だった。
第零章 追想編 完




