第23話 I doll
鼻の奥を鋭く突くのは、生肉が焦げ付くような不快な臭い。指先から這い出した青白い火花が、血に飢えた生き物のように腕を駆け上がり、全身の産毛を微細な静電気で逆立たせた。
「……ふう」
熱を逃がすように短く吐き出された呼気すら、小さな放電を帯びてパチリと爆ぜる。地下訓練場の薄暗がりに浮かぶコナトスの瞳は、もはや人間のそれではなく、嵐の核のような苛烈で鋭い光を宿していた。
「雷よ……纏え!!!」
脳内で何かが物理的に爆発するような錯覚。視界が真っ白に染まり、思考の速度が異常な領域へと加速する。
「5……4……」
脳髄が焼き切れるような熱。しかし、それは苦痛を超越した、すべてがスローモーションに見える「覚醒」だった。
雷光の魔力が神経系を強引にジャックし、生体信号を数千倍に加速させる。ドクン、と重く脈打った心臓が、血液の代わりに純粋な高圧エネルギーを全身の細胞へと無理やり送り込み始める。
「3……」
リミッターが外れた筋肉が、千切れんばかりに悲鳴を上げる。本来、肉体が自壊するのを守るために設けられた制約を、雷の奔流が強引にぶち壊していく。極限まで膨張した大腿筋からはバチバチと激しい電弧が走り、足元の大理石の石畳を容赦なく黒く焦がした。
「2……」
周囲の時間が完全に止まったかのように錯覚する。地下の淀んだ空気を舞い落ちる塵の一つひとつが、空中で静止して見えるほどの神速の世界。
「1……そこまで」
突如、張り詰めた空気を断ち切るゴレムの冷徹な声。
閃光が霧散し、強制的な強化が解けた身体から、蒸気のような白煙がもうもうと立ち上る。指先は過剰負荷の反動で痙攣するように震え、肌には、破裂寸前の赤紫色の毛細血管が網の目のように浮き出ていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……クソッ……!」
「………やはり、雷魔術による身体強化は、制御と燃費に難ありですね。そんな無茶苦茶な使い方……近いうちに、中身から完全に壊れますよ。」
土の代行者、ゴレムが沈痛な面持ちで告げる。
「こうでもしなきゃ……アイツには、絶対に勝てない。」
「……流石のあの人も、コナトスさんが命を削ってまで剣を振るのを喜ぶとは思いませんけどね。」
分かっている。これはただの俺のエゴだ。果たせていない約束を、狂気じみた執念という形で無理やり塗りつぶそうとする、見苦しく汚い執着。
「……もう一度、頼みます。少し……感覚を掴めてきた。」
「駄目です。今日はここまで。……鏡を見てください。無茶な魔術使用の代償で、髪に白髪がまた増えてますよ。これ以上は本格的に手遅れになります。」
「これは……ストレスだ。アイツのせいだ」
……実際、ストレスは否定できない。記憶喪失のジョン・ドゥが現れてからというもの、俺の日常は「わけわからん」の連続だ。そういえば、あの狂った「あいどる活動」とやらは、どうなっているのか。
「とにかく、今日は終わりです」
呆れたように立ち去ろうとしたゴレムさんが、ふと思い出したように足を止めた。
「ああ……ジョンさんが、今度大きな広場で『らいぶ』をするので、是非コナトスさんにも来て欲しいと言っていましたよ。何でも、街を巻き込んで大盛況だそうで」
「………」
「訓練バカもほどほどに。いい気分転換の機会ですから、見に行ってあげてください。……これは、師匠命令ですよ。」
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翌日。ゴレムの言葉に逆らえず、俺が渋々指定された街の広場へ向かうと、そこには脳の処理が追いつかない異様な光景が広がっていた。
「何だ……あれは? こんなところに、あんな巨大な演説台なんてあったか?」
いや、演説台というにはあまりにギラギラと光り輝きすぎている。色とりどりの派手な布と、貴重な魔石を湯水のように使った過剰なライティング。そして何より、広場を埋め尽くす観客の密度と熱気が異常だ。
「おう! 兄ちゃん! 見ねぇ顔だな。『アカリン』のライブは初めてか?」
声をかけてきたのは、いつぞや酒場で見かけた隻眼の歴戦の攻略者だった。彼はなぜか、光る棒を両手に何本も握りしめ、歴戦の猛者とは思えないほど興奮で鼻息を荒くしている。
「ああ……そんなところだ。」
「そりゃあいい! 人生観が変わるぜ! 初めての体験っていうのは、いつだって素晴らしいものだからな!! さあ、棒を持て!」
豪快に笑う男の背後で、聞き馴染みのない、心臓の鼓動を直接叩くような跳ねるリズムの音楽が爆音で流れ始めた。
舞台中央から、天を突くような黄金の光の柱が昇る。その輝きの中から、薄いフリルとリボンを大量に纏った「燐光の代行者」が姿を現した。
「みんなー! 今日は会いに来てくれて、ありがとーっ!! アカリン、すーっごく嬉しいぞっ☆」
「いや……誰!?」
「「「うおー!!!!『アカリン』さまぁあああ!!!! !!」」」
街を物理的に揺らすような地響きの歓声が湧き起こり、俺は口を半開きにしたまま、呆然とその光景を見上げるしかなかった。
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ライブが終わった後も、耳鳴りと理解不能な衝撃でしばらく動けなかった。
あの感情が欠落していたはずの守護者が、満面の笑みで歌い、踊り、あざとく首を傾げてウインクまでしていた。……ついに感情が戻ったのか? それとも、大衆を操る新種の凶悪な力か?
「ああ! コナトスさん!! 来てくれたんですね!」
大成功の興奮で顔を赤く上気させたジョンが、群衆を掻き分けて駆け寄ってくる。
「どうでしたか、彼女のライブ!? 見違えたでしょう!!?」
「あ、ああ……見違えたというか、もはや完全に別人だ。……一体、どんな教育をしたらああなるんだ?」
「それは……もう、色々と血のにじむような努力が! そうだ! この後、打ち上げでご飯食べに行きませんか? アカリンも一緒です!」
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指定された貸切の酒場。そこには、煌びやかなステージ衣装を脱ぎ捨て、地味なローブを羽織ったアカリが、一番隅の席で一人静かに座っていた。
「あんた、一人か?」
「あなたは……ええ、ぷろでゅーさーの連れの剣士ですね。彼は所用で少し遅れるそうです。」
氷のように冷たく、抑揚のない声。あのステージでのキラキラした笑顔と弾むような声が嘘のように、彼女は「元通りの守護者」だった。
「……………」
「……………」
気まずい沈黙がテーブルを覆う。ジョンの野郎、誘っておいて遅れるとはどういう神経だ。
「……今日の『らいぶ』は、どうだったでしょうか」
アカリが、不安そうに、けれど全くの無表情のまま、テーブルの木目を凝視して尋ねてくる。
「正直、驚いた。あんたの普段のイメージとはかけ離れていたからな。……悪い意味じゃないぞ」
「……それなら……良かったです。」
彼女はうつむき、白磁のような自分の指先をぎゅっと握りしめた。
……なるほど、彼女の言いたいことが何となく分かった。この守護者は、きっと途方もなくバカ真面目なんだな。
彼女にとって、計算された「偽りの笑顔」で他者から熱狂的に愛されることは『嘘をついている』に当たるのだろう。
そのせいでひどい罪悪感と空虚さを抱いているようだ。
「気にする必要ないと思うぜ。」
「でも、『らいぶ』での私のあの姿は、すべて計算された嘘なんです。観客の反応を分析し、最も喜ばれるように最適化された立ち振る舞いをしているに過ぎません。私は……純粋な彼らを、騙しているのではないかと」
「別にいいだろ。人間なんて、みんな何かしらの役割や仮面を演じて生きてる。それが生きるってことだ。気にするほどのことじゃない。」
「ですが……それじゃあ、『私』であることの意味は何なのですか? 観客の望むまま動く『人形』と、空っぽの今の私に、一体何の違いが……」
冷たい声の奥底から、絞り出すような不器用な「熱」が伝わってきた。それは作られたものではない、間違いなく彼女自身の苦悩という名の意志だ。
「甘えんな。『自分らしさ』なんて、誰も最初から分かりゃしねぇよ。それに空っぽなら、これから埋めればいい。みんなそうやって生きてんだ。」
つい、強さを求めて身を削る自分の境遇を重ねて声が尖る。
「……まあ、その答えはゆっくり探せばいい。……ただ、これだけは言っておく。」
「らいぶ……結構楽しめた。」
「……。ありがとうございます。」
一瞬、彼女の口角がわずかに、本当にわずかに上がった気がした。
「ああ。そんなに自分が人形であることが気になるならよ……あのジョンの野郎に、一つわがままを言ってやろうぜ」
俺は彼女に顔を近づけ、悪戯っぽく耳打ちする。散々無茶苦茶なことに振り回された俺からの、ささやかなお返しだ。アイツにも、少しは「わけわからん」状況を味合わせてやらなきゃ気が済まない。
「……そんなお願い、聞いてくれるでしょうか」
「ああ、アイツは頼まれたら何でもするバカだからな。きっと即答だ。……おっ、噂をすればあいつが来たみたいだぞ。」
酒場の扉が勢いよく開く。
「ごめんなさい! 会場の後片付けで遅れました!」
「ああ、気にするな。それよりジョン、アカリンからお前にお願いがあるそうだ」
「アカリンが!? 何だい!? アイドルの望みを叶えるのがプロデューサーの役目だ、遠慮せず何でも言ってくれ!!」
喜び勇んで身を乗り出すジョン。よし、馬鹿がまんまと罠にかかったな。
アカリは俺と視線を合わせると、少しだけ意地悪な光を瞳に宿し、意を決したように口を開いた。
「それでは、ぷろでゅーさー……」
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「みんなー! 今日は大事なお知らせがあります!!!」
翌週のライブ会場。満員の客席が期待でどよめく。
「なんと、今日から私に、新しい相棒の新メンバーが加入することになりました!!!」
「「「うおおおおおおおおおお!!!!!」」」
割れんばかりの大歓声の中、ジョン――いや、サイズの合わないヒラヒラの衣装を無理やり纏わされ、絶望の表情を浮かべた青年が、舞台袖からアカリによって強引に突き出される。
「し、新メンバーの……『カガミン』です……。よ、よろしくお願いします。」
コナトスは客席の最前列の隅で、今日一番の輝くような笑顔で光る棒を振り回した。
――世界は、今日もわけがわからない。




