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第17話 残り火

 重く湿った沈黙が、耳の奥で耳鳴りのように反響している。泥の底に沈んでいたような意識の端が、微かに震えた。

 

 まぶたの裏に張り付いた粘り気のある闇を、無理やり引き剥がす。網膜を刺す微かな光に目を細めると、視界に飛び込んできたのは、煤けた太い梁が剥き出しになった見覚えのない天井だった。どこからか、古い紙の匂いと微かな薬草の香りが漂ってくる。


「ここは……どこだ?」

 

 ひび割れた声が、ひんやりとした空気に吸い込まれる。割れるような頭痛を堪え、軋む体を急かして半身を起こした。

 

 どうやら僕は、ベッドに横になっていたようだ。


 周囲を見渡すと、そこは簡素ながらも手入れの行き届いた部屋だった。宿屋の一室のようにも見えるが、壁一面を埋め尽くす古びた背表紙の本の多さが、どこか個人の書斎のような趣を与えている。


 窓の隙間からは、白み始めたばかりの頼りない光が差し込んでいた。

 

 知識としては、これが「本」であり、今座っているのが「ベッド」であることは理解できる。だが、それらを認識する自分の足元が、恐ろしいほどに透き通っていた。決定的な何かが欠落している。


「僕は……一体、誰なんだ?」

 

 自分の名前を呼ぼうとして、喉が震えるだけで音にならない。過去の光景を辿ろうとしても、そこには厚い乳白色の霧が立ち込めている。焦燥感が指先から這い上がり、心臓を冷たく握りつぶそうとしたその時。

 

 不意に、立て付けの悪い木の扉がギィと軋んだ音を立てて開いた。


「おや? 目が覚めたみたいですね。」

 

 入ってきたのは、四十代半ばほどに見える、銀縁のメガネを掛けた男だった。

 

 温和な笑みを湛えた、知的な印象を与える風貌。だが、彼が歩を進めるたびに、微かに「カチ、リ」という硬質な乾いた音が響く。

 

 よく見れば、男の腕や首元の関節部は、人間のような滑らかな皮膚ではなく、精巧に削り出された球体関節になっていた。まるで、意思を持って動き出した等身大のビスク・ドールのようだ。


「驚きますよね。実は私、ゴーレムなんですよ。見た目こそ人間に寄せていますが、中身の殆どは土で出来ているんです。……ほら、こんな風に腕も着脱可能でして。」

 

 男――ゴレムと名乗るゴーレムは、事も無げに自らの肩から右腕を「引っこ抜き」、ブラブラと振り子のように揺らしてみせた。断面からは血の一滴も流れず、ただ緻密な術式が青白く脈打つ土の質感が覗いている。


 ……正直、寝起きの頭には、脳が理解を拒むほど刺激が強すぎる光景だった。


「……とりあえず、混乱しているでしょうし、簡単な説明からしましょうか。」

 

 彼は腕をカチリと小気味良い音を立てて嵌め戻すと、ベッド脇の丸椅子に腰掛け、穏やかな口調で語り始めた。

 

 ここは「ヴァルト王国」。そして彼はこの地で攻略者ギルドを運営しているのだという。

 

 二日前、鉄兜を被った正体不明の男が、意識を失った僕を背負ってここに現れた。男は「しばらくここで匿ってやってくれ」とだけ告げ、山のような金貨を置いて嵐のように去っていったらしい。


(鉄兜の男……大金……)

 

 その断片的な情報に、胸の奥が微かにざわつく。だが、記憶の糸口を掴もうと焦れば焦るほど、霧はさらに分厚く視界を覆い隠していく。


「そう言えば、体に痛みや違和感はありませんか?」

 

 気遣うような問いかけに、僕は自らの現状をぽつりぽつりと打ち明けた。


「体は……どこも悪くないみたいです。でも、自分に関する記憶が、綺麗さっぱり消えているんです。」


「……なるほど、珍しい症例ですね。」


「……記憶、戻るでしょうか。」

 

 暗闇の中で差し伸べられた手に縋るような僕の問いに、ゴレムさんは困ったように眉を下げた。無機物であるはずの彼の表情には、人間以上に深い同情の色が浮かんでいた。


「専門的な知識を持ち合わせていないので、安請け合いはできません……申し訳ない。」

 

 誠実なその回答に、僕は自分の甘さを激しく恥じた。見ず知らずの僕を匿ってくれている相手に、答えようのない質問をしてしまった。


「……こちらこそ、すみません。変なことを聞きました。」

 

 部屋に、気まずい静寂が降りる。

 

 窓の外から聞こえる風の音と、どこかの枯れ枝が壁を擦る音だけが、やけに大きく響いた。己の空っぽさが、静寂の中で浮き彫りになっていくようだった。


「……そ、そうだ! 二日間も眠っていたんです、お腹が空いているでしょう! 下で粥を用意しています。一緒に食べましょうか。」

 

 僕の沈んだ空気を察したのか、ゴレムさんはぱっと顔を上げ、弾んだ声で提案した。



◻️◻️◻️◻️◻️



「何これ……めちゃくちゃ美味しい。」

 

 一口食べた瞬間、虚ろだった体中の細胞が歓喜の声を上げた。


 出されたのは、湯気を立てる滋養強壮に良さそうな卵粥だった。

 

 木のスプーンで、とろりとした粥をそっと掬い上げる。米の粒は形を失う一歩手前までじっくりと煮込まれ、出汁の優しい琥珀色に深く染まっていた。そこに、菜の花の蕾を散らしたような淡い黄色の卵が、細かな絹糸のように美しく混ざり合っている。

 

 口に運ぶと、まず魚介の出汁がじんわりと舌の上で解け、冷え切っていた喉の奥から胃袋へと、じんわりとした温もりが広がっていく。卵のまろやかなコクが全体を包み込み、噛む必要さえないほど滑らかに落ちていく。空っぽになった心まで満たされていくような、ひどく優しい味だった。


「本当に、美味しいです。……ゴレムさんは、どこかで料理を習っていたんですか?」


「……昔、一人の王女様の護衛をしてましてね。その方がそれはもう我が儘で、無理難題ばかり吹っかけてくる方だったんですよ。料理も、その方の要望に応えるために必死で覚えた技術の一つなんです。」

 

 窓から差し込む夕陽が、部屋全体をセピア色に染め上げていた。オレンジ色の光を浴びて、ゴレムは目を細めた。その横顔には、慈しむような温かな笑みが浮かんでいる。彼にとって、その「我が儘な王女」との日々は、今も色褪せない宝物のような記憶なのだろう。それが少しだけ、羨ましかった。


「さて。貴方はこれからどうされますか? 記憶が戻るまではここに居て頂いて構いませんが……何か、やりたいことはありますか?」


「僕は……」

 

 空になった器を見つめ、胸の奥底の暗闇に手を伸ばす。

 

 記憶はない。自分を証明する言葉もない。

 

 けれど、魂の深い場所に、決して消えない「火」のような確信だけが、確かに灯っていた。


「……ダンジョンに行きたいです。なぜかは分かりません。でも、あそこへ行かなければならない気がする。誰かと約束をしたような……何かを終わらせなければならないような、そんな気がするんです。」

 

 その言葉が口を突いて出た瞬間、視界の端で一瞬だけ、幻のような黄金色の光が閃いた気がした。


「ダンジョンですか。……それなら、第三層を目指すのが良いかもしれません。その階層を担当する代行者なら貴方の記憶を呼び覚ませるかもしれません。」


「第三層……分かりました。」


「一人では危険ですから。腕利きの攻略者を一人、同行させましょう。少し口の悪い方ですが、根は優しく、面倒見も良いので安心してください。」

 

 至れり尽くせりの提案に、僕は戸惑いを隠せなかった。


「……どうして、そこまでしてくれるんですか? 僕は身元も分からない不審者なのに。」


「……良いんですよ。これも何かの縁ですからね、あるいは……」

 

 ゴレムさんは言葉を濁し、意味深に微笑んで立ち上がった。


「そうだ。魔術は使えますか?」


「存在は知っていますが……自分が使えるかは、分かりません。」


「では、調べましょう。埃を被っていますが、適性検査用の魔術水晶を持ってきます。」

 

 数分後。彼は奥の部屋から、バレーボールほどの大きさの水晶球を抱えて戻ってきた。


「これに、そっと手をかざしてください。」

 

 僕は深く息を吸い込み、冷たい水晶の表面に両の掌を当てた。

 

 目を閉じ、意識を集中させる。内側から何かが溢れ出し、この水晶が眩い光を放ってくれることを祈りながら。……しかし。

 

 しばらく経っても、指先から伝わるのはガラスの無機質な冷たさだけだった。目を開けると、水晶は冷え切ったままで、一筋の光も放たず、ただ間抜けに僕の顔を映し出していた。


「……まっ魔術の適性なんて、無いのが普通ですから! 身体強化の無属性魔術さえ使えれば、攻略者としては十分やっていけますからね!」

 

 必死にフォローするゴレムさんの声が、静かな部屋に空しく響く。

 

 名前も、過去も、特別な魔術の才能さえもない。

 

 そんな空っぽの僕の手には、ただ、どこか遠い場所で誰かが待っているという、根拠のない予感だけが残されていた。


 握りしめた拳の奥底で、あの「火」だけは静かに、けれど力強く燃え続けていた。


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