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第18話 リスタート

「コナトスだ。ゴレムさんに頼まれて、あんたのダンジョン攻略を手伝うことになった。」

 

 翌朝。夜露と古い石材が混ざり合った、ギルド特有の冷たく湿った空気を切り裂くように、無愛想な声が響いた。

 

 そこに立っていたのは、一分の隙もない立ち姿の青年だった。簡素な革鎧の上からでも容易に想像がつく、無駄を削ぎ落とした鋼のように引き締まった肢体。腰には、この世界では珍しい、反りのある一本の抜き身ならぬ「刀」を下げている。

 

 何より目を引くのは、朝日を弾いて輝く、明るい茶色の髪だ。

 

 僕の微かな記憶が、その色に「快活さ」や「軽薄さ」といったイメージを無意識に投影しようとする。

 

 しかし、目の前の男から放たれるオーラは、その真逆――底冷えするほどに静かで、ひどく重い。射抜くような瞳には一切の温度がなく、その髪色の軽やかさと本人の纏う死生観のアンバランスさが、周囲の空間を歪めているような錯覚さえ覚える。


「は……初めまして。ジョン・ドゥです。しばらくの間、よろしくお願いします……」

 

 蛇を前にした蛙のような本能的な恐怖に喉を鳴らしながら、なんとか挨拶を済ませる。


 ジョン・ドゥ。昨日ゴレムさんが「名無しの権兵衛」という意味を込めて付けてくれた仮の名前が、何もない今の僕にはひどく相応しく思えた。


「早速だが。あんた、何ができる?」

 

 コナトスの薄い唇から、感情の乗らない事務的な問いが放たれる。

 

 昨日、ゴレムさんの手伝いで夜遅くまで試した。剣の素振り、魔術の発動、身体強化の練り込み……。


「……何も……できませんでした。」


「帰れ。」

 

 慈悲の一片もない、凍てつくような拒絶。空気がピシリと凍りついたような、それが、僕たちの始まりだった。



◻️◻️◻️◻️◻️



「とりあえず、第一層でモンスターと戦ってみろ。話はそれからだ。」

 

 有無を言わさず連れてこられた第一層。足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつくような湿った土の匂いと、酸っぱく鼻を突く獣の臭気が混ざり合う、淀んだ空気に包まれた。光源は壁に生えた微かに光る苔のみで、ひどく薄暗い。

 

 目の前には、全長1メートルを超える巨大なアリ型の魔物――キラーアントが、六本の脚をカサカサと不気味な音を立てながら立ち塞がっていた。

 

 怖い。

 

 知識として「魔物がいる」と知っていることと、現実に眼前に迫る「死の形」は全くの別物だった。


 ぬらぬらと黒光りする節だった外骨格。無機質な複眼に映る、血の気を失った自分の情けない姿。剣を握る右手が、僕の意思を完全に裏切って、ミシミシと骨が鳴るほどに震え始める。

 

 キィッ!と短い鳴き声を上げ、アリが地面を蹴って突進してくる。その重量感が足元から伝わるたびに、僕の心臓は破裂しそうなほど早鐘を打った。


 恐怖で全身の血が凍りつき、視界が白く明滅する。すぐ後ろでコナトスが見守っているという気配さえ、遠い世界の出来事のように薄れていく。

 

 眼前に迫る大顎。僕はたまらず、無様に目を瞑ってしまった。


「……駄目だな。」

 

 耳元を掠めた冷たい声の直後。硬質で、ひどく澄んだ衝撃音が響いた。

 

 恐る恐る目を開けると、僕の鼻先数センチのところで、キラーアントの巨体が綺麗に真っ二つに両断され、ドサリと地面に崩れ落ちていた。刀をカチャリと鞘に収めるコナトスさんの動作は、あまりに速く、無駄がなく、そして美しすぎて現実味がなかった。


「諦めろ。あんたには無理だ。」


「すみません……でも、もう一度だけ……」


「もう一度なんて、戦場には無い。」

 

 彼は血糊一つついていない刀の柄から手を離し、吐き捨てるように言い放った。


「これは強さの話じゃない。心の話だ。」


「日銭を稼ぐだけの浅層の攻略者なら、恐怖に慣れさえすれば誰でもなれる。だが、あんたが目指すのは第三層だろ? そこは守護者の助けがない場合の人類の限界到達階層だ。常に極限状態が続く場所で、目の前の死をいちいち恐れて硬直するような奴は、ただの『荷物』だ。俺の命まで危うくなる。」

 

 ぐうの音も出ない正論が、氷の刃のように胸に突き刺さる。情けなさで俯く僕を置き去りにするように、コナトスさんは背を向けた。


「俺だって、そんな奴の自殺に付き合うほど暇じゃない。帰るぞ。」


「待って下さい……もう一度だけ、やらせてください。」

 

 恐怖でかすれた声が、静寂のダンジョンを切り裂いた。

 

 コナトスさんは振り返りもせず、「無意味だ。あんたの尊厳をこれ以上汚すだけだ」と冷淡に返した。確かにその通りかもしれない。膝はまだ笑っているし、掌には嫌な汗がびっしょりと滲んでいる。

 

 でも、胸の奥で、正体不明の「熱」が暴れていた。

 

 名前も記憶も失くした僕の中に、唯一残った強烈な確信。ダンジョンへ向かえと叫ぶ、血を吐くような約束の残響。

 

 恐怖は消えない。死ぬのは怖い。けれど、ここで引いてしまえば、僕は本当の意味で「誰でもない空っぽの肉塊」になってしまう。それだけは、絶対に嫌だった。


「もう一度だけ……やらせてください。」

 

 振り絞った声に、彼がぴたりと足を止め、肩越しにこちらを睨んだ。金色の瞳が、僕の魂の底を値踏みするように細められる。


「……ラストチャンスだ。」



◻️◻️◻️◻️◻️

 

 通路の奥から現れた二匹目と、再び対峙する。恐怖は依然としてそこにあり、胃袋を冷たく握りしめている。けれど、柄を握る手はもう震えていなかった。

 

 僕が泥濘む土を蹴って踏み込むのと同時に、キラーアントも牙を剥いて突進してきた。

「行くぞぉおおお!!!」

 

 己を鼓舞する叫びに呼応するように、巨大アリが大顎を「ギチギチッ!」と打ち鳴らす。鼓膜を直接削り取るような不快な音が響く中、僕は渾身の力で剣を振り下ろした。

 

 手応えは、絶望的だった。

 

 ひ弱な筋力で振るわれた鋼の刃は、アリの強固な外骨格にあっさりと弾かれ、火花を散らす。体勢を崩した僕の横腹を、アリの鎌のような前脚が容赦なく薙ぎ払った。


「ぐはぁっ……!」

 

 巨大な丸太で殴られたような凄まじい衝撃。肺から空気が強制的に搾り出され、視界がチカチカと赤黒く明滅する。泥だらけの地面を転がり、吹き飛ばされた僕に、アリはトドメの突進を仕掛けてきた。腹部を丸め、毒を持っていそうな鋭い針を備えた尾を真っ直ぐに突き出してくる。


(落ち着け……継ぎ目だ。関節の隙間を狙え!)

 

 極限の集中の中で、視界が泥水のようにゆっくりと流れるスローモーションに変わる。

 

 頭上から覆いかぶさるような巨体。剥き出しの牙の奥から漂う腐臭。僕はあえて死の懐へと身を沈め、頭部と胸部の間にわずかに露出した「柔らかな継ぎ目」に向けて、下から突き上げるように剣を突き出した。

 

 ズブシュッ!!


 肉を断つ生々しい感触と共に、紫色の濁った体液が勢いよく噴き出し、僕の顔を、視界を毒々しく染め上げる。致命傷を負いながらも、アリは断末魔の痙攣を起こし、なおも僕の首を噛み千切ろうと狂ったように顎を動かした。

 

 剣が骨格に挟まって抜けない。もう、僕の筋力では巨体の重みを押し返せない。

 

 無意識だった、僕は天に祈るように、迫り来る魔物へ掌をかざして強く念じた。


(止まれ……っ! )

 

 瞬間、僕の掌から「色」と「温度」が消えた。

 

 パキィンッ!というガラスが弾けるような甲高い音と共に、キラーアントの体が、大顎の先から足先まで、一瞬にして白銀の氷に閉ざされていく。周囲の気温が急激に下がり、吐く息が白く染まる。生命活動を強制停止させるような、冷徹で絶対的なまでの結氷だった。


「僕が……やったのか?」

 

 氷の彫像と化した魔物を前に、呆然と立ち尽くす僕の背後。刀を杖代わりについて、コナトスさんがゆっくりと歩み寄ってきた。その顔には、先ほどの冷徹さとは違う、純粋な驚愕の色が浮かんでいる。


「……合格だ。身体強化もなしに、あそこまで立ち回れるとはな。認めるよ、あんたは――『イカれてる』。」 

 

 それは、ただの荷物扱いだった僕の空っぽの世界が、攻略者として再び動き出した瞬間だった。



◻️◻️◻️◻️◻️



「覚悟は見せてもらった。だが……あんた、魔術が使えたんだな。ゴレムさんからは適性なしと聞いていたが。」

 

 ダンジョンからの帰路。薄暗い通路を歩きながら、コナトスが怪訝そうに問いかけてきた。その横顔は、未知の生物を観察するような目つきだ。


「僕も驚いています。水晶は、何の反応も示さなかったのに。」


「あの水晶、埃を被っていたからな。おそらく故障だろう。……だが、魔術が使えるからといって浮かれるな。ダンジョン攻略において、属性魔術は相性が悪い。なんせ『燃費』が最悪だ。やたらめったら使って攻略中に魔素中毒になったら目も当てられない。」

 

 コナトスはさん歩くペースを崩さず、淡々と解説を続ける。一匹狼のような近寄りがたい風貌に似合わず、その教え方は極めて論理的で、素人の僕にも分かりやすかった。


「だからこそ、大事なのは『無属性魔術』による身体強化だ。これなら魔素中毒のリスクを極限まで抑えつつ、長時間戦える。属性魔術はあくまで奥の手だ。」


(なるほど、説明がすごく丁寧だ。コナトスさんって、見た目は怖いけど意外と社交的で優しいんじゃ……)


「……あんた、今俺に対して失礼なこと考えなかったか?」


「いえ! 滅相もありません!」

 

 鋭い。この人、勘まで狼並みに鋭敏だ。背筋に冷たい汗が流れる。


「……まあいい。今日の仕上げだ。無属性魔術の感覚を掴んでもらう。発動のイメージは、体内の血管に魔力を這わせるような……」



◻️◻️◻️◻️◻️

 


――一時間後。

「……何で、できねぇんだよ。」

 

 ギルドの裏庭。コナトスさんが、これまでにないほど困惑した表情で、明るい茶髪をくしゃくしゃに掻き毟りながら頭を抱えていた。


「ごっ、ごめんなさい……。」

 

 無属性魔術が、全くできない。

 

 誰でも息をするように使えるはずの、最も基礎的な魔術。コナトスさんの教え方は完璧なはずなのに、僕の体内にはそもそも「魔術を這わせる」という概念の器官が存在しないかのように、ビクともしなかった。

 

 腕立て伏せをしようとして、腕がないことに気づいたような、奇妙な欠落感だけがある。


「……仕方ない。日が暮れる。最後に、あんたの水(氷)魔術の限界使用回数だけ測るぞ。気分の悪化や頭痛を感じるまで、そこの壁に魔術を撃ち続けろ。」


「分かりました!」


◻️◻️◻️◻️◻️

 

――さらに三十分後。すっかり日は落ち、夜の帳が下りていた。


「……おい。もう四十回は超えたぞ。まだ気分は悪くならないのか?」


「はい! まだ全然、余裕です!」

 

 僕は裏庭の石壁を分厚い氷で覆い尽くしながら、元気よく答えた。頭痛どころか、息一つ切れていない。


「そうか……。それと、今さらだが、あんた『詠唱』はどうした?」


「……え? そういえば……してないですね。」

 

 手を止めて振り返ると、コナトスは信じられないもの、いや、世界の理から外れたバグを見るような目で僕を見つめていた。

 

 魔術とは、世界との契約だ。言葉という手続きを経て、初めて世界に干渉し発動するもの。無詠唱など、この世界の絶対的な法則としてあり得ない――先ほど彼がそう教えてくれたばかりだ。


「……もう……わけわからん。」

 

 凄腕の茶髪の剣士は、限界を迎えたように深いため息をつきながら、幽霊でも見るような目で僕を見た。その瞳から、朝の底冷えするような威圧感はすっかり消え失せていた。

 

 何か……すみません。


 僕は心の中で、ひっそりと彼に頭を下げた。


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