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第16話 うづみ火

──アナタを愛してる。

 

 空は常に濁った鉛色に淀み、境界の森からは絶えず獣たちの飢えた咆哮が風に乗って運ばれてくる。そんなモンスターが絶えず溢れる世界で、戦う術を持たない種族は、寄せ合うようにして力ある者の庇護の元で暮らしていた。


 私はこの村の「盾」であり「剣」だ。今日も村を囲う粗末な柵の向こう、赤く光る無数の眼光を睨みつける。


「アルデーレ、いつもありがとうね。でも無理していないかい? 辛いときはいつでも言うんだよ。」


 背後から掛けられた声に振り向くと、そこには慈愛に満ちた表情の女性が立っていた。彼女の差し出す温かい茶からは、野草の香りが微かに立ち上る。


「うん。私は全然大丈夫だから気にしないで」


 微笑み返す私の頬は、どこか強張っていた。彼女が私の母親であることは、手元にある古びた日記が教えてくれている。けれど、その温もりも、共に過ごしたはずの幼い日の光景も、今の私には磨りガラスの向こう側にある景色のようにひどく曖昧だった。


 毎日、手垢で汚れた日記を見つめ、昨日まで確かにあったはずの記憶が砂のように零れ落ちていく感覚に怯える。この身を削り、力を振るうたびに、私は「私」を失っていくのだろうか。


 それでも、ここの人々を見捨てることなどできない。魂の根底に残った残り火のような衝動が、愛していると、守れと、私に囁き続けている。


──ア⬜タを愛してる。


 季節が巡る感覚さえ薄れ始めたある日の夕刻。西の空が燃えるような茜色に染まる頃、一人の男が村の門を叩いた。


 彼は、この絶望が日常となった世界において、あまりに異質な空気を纏っていた。庇護を乞う弱者の卑屈さも、略奪者の凶暴さもない。彼はただ、『魔術』と呼ばれる未知の技術を携えていた。


 最初は誰もが、その「言葉を紡ぐだけでその事象を起こせる」という男の言葉を疑った。けれど、彼が静かに言葉を紡いだ瞬間、空気が震え、指先から清冽な水の球が浮かび上がったとき、村人の疑念は驚嘆と希望へと変わった。


 それは、血を流さずともこの世界に抗える、まさしく奇跡の光。


 講習を終えた彼は、西日に背を向けて荷を背負った。村人たちが、涙ながらに救世主として引き留めるのを、彼は穏やかに、けれど鋼のような意志を込めた声で拒んだ。


「まだ助けを求めている人が沢山いますので」


 その背中を見つめながら、私は胸を締め付けられるような既視感に襲われていた。


──⬜⬜⬜を⬜してる。


「あの! 貴方のお名前は!?」


 遠ざかる彼の背中に向かって、私は喉を振り絞るように声を上げた。名前さえ知れば、この胸の痛みにも名前がつくような気がしたのだ。彼は歩みを止め、振り返る。逆光の中で、その表情はよく見えなかった。


「僕の名前ですか? 僕の名前は⬜⬜⬜・⬜⬜⬜です。それじゃあまたどこかで」


 彼が去った後、村に広まった『魔術』は私の負担を劇的に減らした。力を振るう回数が減り、記憶を過剰に消費しなくなったことで、私の記憶は少しずつ、沈殿するように定着し始めた。



⬜⬜⬜⬜⬜


 

 時は流れ、場所は変わる。湿り気を帯びた石造りの壁、松明の炎が不規則に揺れるダンジョンの深奥。


 守るべき村も朽ち果て、私を縛る役目だけが形を変えて残った。


「ダンジョンの守護者が一人、劫火の代行者アルデーレ・エピストゥラと申します。以後お見知りおきを」


 私は侵入者を迎える「番人」として、幾度目かも分からぬ口上を述べる。この役割が、いつから始まったのか、いつ終わるのかも霧の中だ。


 けれど、今日現れた一行の中に、一羽の鳥のように自由な気配を纏う「セイヴィア」がいた。そしてその傍らには、見慣れぬ衣服に身を包んだ少年が立っている。


 漆黒の夜を溶かし込んだような髪、そして、吸い込まれそうなほど深い黒の瞳。


 この色とりどりの世界において、そのモノクロームの色彩は、あまりにも鮮烈に私の視界を射抜いた。


「貴方……名前は?」


 震える声を抑え、私は問う。


「加が……新・加上アラタ・カガミですけど……」


 その響きが耳に届いた瞬間、静止していた私の時間が、音を立てて動き出した。


 記憶の底、灰に埋もれていた「うづみ火」が激しく爆ぜ、胸の奥を熱く、痛いほどに焦がしていく。


 ……ああ、ようやく、この名前を呼べる気がする。


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