第9話 作戦開始
「まずはタイムリミットからだ」
シュピーゲルさんは、宿の狭い部屋に充満する沈黙を切り裂くように言った。
壁に掛けられた時計の秒針が、運命を刻む音だけがやけに大きく響く。
「猶予は約六日間。祝賀祭が終わるまで。祭りのクライマックス、民衆の歓喜が頂点に達したその時、聖女様は『役目』を終える。己の命を英雄――お前に託し、お前はその意思を継いでダンジョン深部へと向かう。各国のお偉いさんが描いているのは、そういうシナリオだろう」
彼の声には、抑えきれない怒気が滲んでいた。鉄兜の隙間から漏れ出る視線は、冷徹な仮面の下で煮え繰り返る熱情を秘めている。
……当然だ。この人は孤独を背負わされた少女の傍らに、誰よりも長く寄り添ってきたのだから。
「俺たちの目的はただ一つ。聖女様を強引に連れ出し、命を捧げるなんて馬鹿げた真似を叩き潰すことだ。だが……これには一つ、致命的な障害がある」
シュピーゲルは忌々しそうに言葉を継いだ。
「現在、他国から『剣聖』が祝辞のために招かれている。王宮の警備を突破し、聖女様を連れ去ろうとすれば、必ず立ち塞がるだろう」
「その剣聖という人は、強いんですか?」
「ああ、理不尽なほどにな。ダンジョンの守護者が一人――『剣の代行者』アレス・シュバート。純粋な戦闘力という一点においてのみ言えば、代行者の中でも最強だろう。」
心臓が冷たく跳ねた。人間社会の武の頂点に君臨する「剣聖」が、まさかダンジョンの守護者だったとは。この世界の歪さは、想像を遥かに超えていた。
「剣聖は俺が引き受ける。時間稼ぎくらいはできるだろう。お前はその隙に、兵士たちを蹴散らし、聖女様を奪い取れ。……任せたぞ」
「分かりました。僕に任せて下さ……」
言いかけた言葉を、シュピーゲルさんが鼻で笑って遮った。
「と言いたいところだが。――今のお前では力不足だろうな」
……とんだ肩透かしだ。この人、急に冷めた冗談を放り込んでくる。
「お前が強いのは認める。だが、数の差を覆せる程じゃない。」
「じゃあ、どうすればいいんですか!? 黙って見てろって言うんですか!」
「だから、この六日間で叩き込んでやる。戦いかたをな。……課題はそうだな。俺から一本、取ってみろ。」
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鈍い破擦音が響き、僕は泥まみれの地面に背中から叩きつけられた。
「大振りすぎだ。騎士団の連中は案山子じゃないんだぞ。」
容赦のない言葉が降ってくる。初日から三日間、僕はただ修練場の泥を啜るだけだった。シュピーゲルさんの剣撃は重く、速く、そして何より冷たかった。隙あらば急所を狙い、こちらの心が折れるのを待っているかのようだ。
「……っ、まだです!」
痛む身体を鞭打って立ち上がり、木剣を構え直す。だが、突進した瞬間に足を払われ、視界が反転した。喉元には、ピタリと木剣の切っ先が突きつけられている。
「素直すぎだ。人間性としては悪くないが、戦いでは邪魔だ。」
四日目、五日目と過ぎるにつれ、僕の身体は打撲と擦り傷で悲鳴を上げていた。だが、泥だらけの視界の中で、少しずつ彼の動きが見えるようになってきたのも事実だった。
圧倒的な力と技の差。魔術を使う隙すら与えて貰えない。まともに打ち合えば絶対に勝てない。
シュピーゲルさんに言われた言葉を反芻する。『お前は素直すぎる』
……僕に一つ素直じゃないところがあるとするなら
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六日目の夕暮れ。
「ハァッ……!」
渾身の踏み込みからの、右の斬り下ろし。シュピーゲルさんは呆れたように軽く剣を合わせ、僕の体勢を崩そうとした。
――ここだ。
僕は事前に詠唱し、発動を保留にしていた魔術を起動させる。
「チッ……!」
自身の肉体を魔術で強化し、上がった防御力でシュピーゲルさんの攻撃をノーガードで受け止める。僕は木剣を彼の下段、脇腹に向かって突き入れた。
バシッ、と硬い音が鳴る。
僕の木剣は、彼に突き刺さる寸前で、がっちりと受け止められていた。
「…………今のは遅延魔術か、どこで覚えてきた?」
「いや、隠し事は得意なので……それを戦闘に生かすならこうかなと」
「……あれはそういう意味ではないのだが。だが、今のは悪くなかった。」
突き放すような物言いだったが、彼の声は初日よりもずっと穏やかだった。
「及第点だな。お前の『あの力』と教えた『奥の手』があれば、少なくとも何もできずに負けるなんてことはないだろう。」
「奥の手の方は使わないに越したことはないがな。」
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「……シュピーゲルさんは、どうしてそこまで協力してくれるんですか?」
祭りの前日。月の光が青白く照らす修練場の隅で、僕は息を切らしながら問いかけた。六日間にわたる特訓。彼は容赦なく僕を打ちのめし続け、その度に「甘い」「遅い」と罵倒を浴びせてきた。けれど、その指導にはどこか、祈るような必死さが混じっていた。
「……別に。ただ、自分が選んだ道とは違う道を見てみたくなっただけだ」
彼は剣を鞘に収め、遠くの王宮を眺めた。その背中は、月光に打たれて酷く寂しげに見えた。
「それよりも、明日は道を間違えるなよ……その時は、俺はお前を殺さなきゃいけなくなる」
背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような錯覚。冗談ではない。鉄兜の奥にある瞳は、本気で僕を殺す覚悟を宿している。
……釘のさし方が怖すぎる。もっと他に言葉はなかったのだろうか。
「分かってますよ。……それくらい」
「そうか。……だといいがな」
彼はそれ以上語らず、夜の闇に溶けるように去っていった。
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街は祝祭の狂乱に包まれていた。
色とりどりの紙吹雪が舞い、広場からは陽気な音楽と酒の匂いが漂ってくる。人々はただ祭りに浮かれ、その裏にある犠牲に気づかずに笑い合っている。
「作戦は分かっているな」
群衆に紛れ、フードを深く被ったシュピーゲルさんが低い声で確認してくる。
「はい。体に染み付いています」
「なら良い。……予想通り、王宮への立ち入りは完全に封鎖された。俺も含めてな。最近の動きを怪しまれ、警備担当から外されてしまった。配属されていればもう少し楽だったのだが。……これもすべて、誰かさんの成長が遅かったせいだな」
「……耳が痛いです」
この数週間で分かった。この人はかなり毒舌だ。おまけに正論しか言わないから余計たちが悪い。
「当初の予定通り、まずは裏手の死角から王宮へ侵入する。見つかり次第、正面突破だ。だが、雑兵どもは問題じゃない。俺とお前がいれば、蹴散らすのは造作もないだろう。問題は……」
「『剣聖』と会敵した時、ですね」
「そうだ。俺が剣聖を足止めする。そこからはお前一人で、聖女様の元へ向かえ」
「……シュピーゲルさん。本当に、大丈夫なんですか? 剣聖を引き受けて、その後……ちゃんと逃げられるんですか?」
守護者の恐ろしさは、ウィータとの戦いで身に染みている。そのウィータを凌ぐ最強の守護者が相手なのだ。いくらシュピーゲルさんが強くても、無事で済むはずがない。
「さあな。逃げ切れる確率は、良くて五分五分というところだろう。……だが、やらなければ望みは叶わない。だからやる。ただそれだけだ」
彼は自嘲気味に鼻を鳴らした。この人は、これまで積み上げてきた地位も、名誉も、おそらくは命さえも、チップとして差し出している。その覚悟の重さに、胸が熱くなる。
「俺の心配より、自分の心配をしたらどうだ? 正直、お前の方が勝算は低いぞ。兵士全員を突破し、聖女様を説得し、拒まれたら力ずくで攫う。」
……確かに。僕の役割も大概に無茶苦茶だ。でも。
「それでも……やらなければ望みは叶わない。……ですよね?」
「フッ……。そうだな」
鉄兜の奥で、彼が初めて笑ったような気がした。
王宮を囲む高い城壁が見えてくる。その威容は、侵入者を拒む絶壁のように立ちはだかっていた。
「近づけるのはここまでだ」
シュピーゲルさんが懐から、魔力を帯びて微かに発光する灰色の布を取り出した。使用者の姿を一定時間消失させる、超一級品の魔道具だ。
「消えられる時間は約六十秒。一度使えば丸一日は再使用できない。これを被り、一気に城内へ潜り込むぞ。」
「はい!」
僕たちはマントを被り、光が屈折する揺らぎと共に、祝祭の影へと姿を消した。
さあ作戦開始だ。




