姉の気遣い
春を迎えた帝国学園は、卒業式を目前に控え、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
進路の話、配属先の話、婚約の話――。
廊下を歩けば、そんな話題があちこちから聞こえてくる。
普段なら気にも留めないような雑談さえ、この時期ばかりは妙に現実味を帯びて耳に残った。
イヴァンスは校舎の廊下を歩きながら、何気なく聞こえてきた女子生徒たちの会話に足を止めた。
「ねえ、聞きました?」
「何ですの?」
「セーニャさん、この頃オルメス聖騎士団長とよくお食事に行っているそうですわ」
「まあ、本当ですの?」
思わず耳が反応する。
「やっぱり結婚後のお話でしょうね。」
「そうでしょうねぇ。新居のこととか、お仕事のこととか、決めることはたくさんありますもの」
「それに聖女様と聖騎士団長ですもの。きっとお似合いですわ」
「いいなぁ……。私も一度でいいからオルメス様に告白されてみたいです」
「あなたは無理ですわよ」
「あら、失礼ですわね」
楽しそうな笑い声が廊下へ響いた。
イヴァンスは何事もなかったように歩き続ける。
(……そうか)
胸の奥が少しだけ重くなる。
セーニャからは、まだ返事をもらっていない。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
あの日の言葉が頭をよぎる。
考えてくれている。
そう信じたい。
だが、その一方で、こうして次々と耳に入ってくる噂は、どうしても心を揺さぶった。
(やっぱり……)
(オルメスさんとの結婚に向けて忙しいんだろうな)
そう考えれば、返事が遅い理由にも説明がつく。
独立部隊へ誘われても、結婚してしまえば自由には動けない。
そう考えているのかもしれない。
イヴァンスは小さく首を振った。
(いや)
(今は考えても仕方ない)
返事を急かすつもりはない。
答えを出すのはセーニャ自身だ。
それなら、自分は自分にできることを進めるだけだった。
独立部隊の構想は少しずつ形になってきていた。
ロルマ。
カムシス。
プラーサ。
三人とも快く了承してくれた。
残る一人。
イヴァンスの頭に浮かんだのは、一人の女性だった。
「ベラミカ先生なら……」
魔導士としての実力はもちろん。
知識も豊富で、冷静な判断力がある。
さらにセーニャの姉でもある。
もし先生が加わってくれれば、部隊全体の安定感は大きく増すはずだった。
そう考えたイヴァンスは、魔導研究棟へ足を向けた。
帝国学園の一角。
見慣れた研究室の扉を軽くノックする。
「ベラミカ先生、いらっしゃいますか?」
「開いてるわよ」
聞き慣れた声に扉を開ける。
室内ではベラミカが机いっぱいに広げられた魔法陣の資料へ目を通していた。淡い魔力灯の光が紙面に反射し、複雑な紋様が静かに浮かび上がっている。
イヴァンスを見ると、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「あら、イヴァンス」
「どうしたの? 改まって」
「実は少し相談がありまして」
「相談?」
ベラミカは資料を閉じ、向かいの椅子を勧めた。
「座って」
「ありがとうございます」
イヴァンスは腰を下ろすと、一呼吸置いて口を開いた。
「四月から近衛騎士団へ入隊することになりました」
「ええ。それは聞いているわ」
「そこで独立部隊を作ることになったんです」
「独立部隊?」
「はい。ディハン軍務卿から、まずは自分で仲間を集めてみろと言われまして」
ベラミカは興味深そうに身を乗り出した。
「それで?」
「先生にも参加していただけないかと思いまして」
一瞬だけ部屋が静かになる。
ベラミカはイヴァンスの表情を見つめ、小さく微笑んだ。
「つまり、私を勧誘しに来たのね。」
「はい」
「ふふっ」
思わず笑みが漏れる。
「セーニャには声を掛けたの?」
その質問に、イヴァンスは少しだけ視線を落とした。
「はい……」
「返事は?」
「まだです」
「断られた?」
「いえ」
イヴァンスは首を横に振る。
「どちらでもないんです」
「少し時間が欲しいって」
その一言だけで、ベラミカはすべてを察したようだった。
「なるほどね」
小さく頷く。
「だから最近ずっと浮かない顔だったのね」
「そんなに分かりますか?」
「分かるわよ」
ベラミカは少しだけ苦笑した。
「はっきり顔に出てるもの。昔からそういうところ、変わらないわね」
イヴァンスは照れくさそうに頭をかく。
「まあ、私は参加するのはオッケーよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「せっかくあなたが誘ってくれたんだもの」
「断る理由なんてないわ」
イヴァンスの表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
「それに……」
ベラミカは少しだけ意味ありげな笑みを浮かべた。
「セーニャのことは、姉である私がそれとなく聞いておいてあげる」
「えっ?」
思わぬ申し出にイヴァンスは目を丸くする。
「本当ですか?」
「ええ」
「妹の考えていることくらい、少しは分かるつもりだから」
「もちろん無理に答えを聞き出したりはしないけどね」
「ただ、何に悩んでいるのかくらいなら探れるかもしれない」
イヴァンスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、ベラミカ先生」
「気にしなくていいわ」
ベラミカは優しく笑う。
「私はあなたたち二人とも応援したいだけ」
その笑顔は教師としてではなく、一人の姉として妹を案じる穏やかなものだった。
イヴァンスはその言葉に少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
まだ返事は分からない。
それでも、誰かがそっと背中を押してくれるだけで、不思議と心は軽くなる。
研究室を後にするイヴァンスの足取りは、ここへ来た時よりも少しだけ力強くなっていた。




