割り切るために
セーニャのウエディングドレスの噂を聞いてから、数日が経っていた。
それなのに、イヴァンスの胸の奥に残ったざわつきは、少しも薄れていなかった。
時間が経てば、自然と落ち着くのではないか。
最初はそう思っていた。
だが、現実は違った。
朝目覚めた瞬間から、ふとした拍子にその話が頭をよぎる。
食事をしていても。
剣の手入れをしていても。
本を開いても、文字がまるで目に入ってこない。
気を紛らわせようとしても、気付けば同じ場面ばかりが浮かんでくる。
セーニャの赤く染まった頬。
何かを言いかけて、慌てて言葉を飲み込んだ横顔。
そして、周囲から聞こえてきた「ウエディングドレス」という言葉。
「……」
イヴァンスは小さく息を吐いた。
胸の中に溜まったものを、吐き出せるならそうしたかった。
けれど、息と一緒に出ていくほど単純なものではない。
考えれば考えるほど、答えのない迷路に入り込んでいくようだった。
(少しでも、何も考えずにいられれば……)
そう思った。
剣を振っている間だけなら、余計なことを考えずに済む。
相手の動きに集中する。
剣の重さを感じる。
踏み込みの感覚を確かめる。
そうしている間だけは、胸のざわつきも、頭の中のもやもやも、少しだけ遠ざかるはずだった。
だからイヴァンスは、魔約の塔へ向かうことにした。
◇
「……珍しいね~」
魔約の塔に着くと、出迎えたジャックが目を丸くした。
「イヴァンスから立ち合いをしてほしいなんて言ってくるなんて」
いつもの軽い口調。
だが、その目は冗談めかしているだけではなかった。
イヴァンスの顔色や、立ち姿のわずかな硬さを、すでに見抜いているようだった。
「今日は休日でしょ? ゆっくり休めばいいのに」
「……少し、身体を動かしたくて」
イヴァンスは短く答えた。
それ以上、余計なことを言う気にはなれなかった。
言葉にしたところで、うまく説明できる自信もない。
ジャックは肩をすくめる。
「まあいいよ。そういう気分の日もあるしね」
そう言いながら、壁に立てかけていた剣を手に取った。
その瞬間、ふざけた雰囲気がほんの少しだけ消える。
普段は軽口ばかり叩いている男だが、剣を握ると空気が変わる。
レキサルも静かに歩み寄り、腰の剣を抜いた。
「私もお相手いたしましょう」
「お願いします」
イヴァンスは木剣を握り直す。
手のひらに伝わる感触は、いつもと変わらない。
それでも、胸の奥にあるざわつきは消えなかった。
三人の間に、ぴんと張り詰めた空気が流れる。
塔の中は静かだった。
外の喧騒も届かない。
聞こえるのは、互いの呼吸と、剣を構えるわずかな衣擦れの音だけ。
イヴァンスはゆっくりと息を整えた。
今は、余計なことを考える必要はない。
ただ目の前の相手を見る。
それだけだ。
◇
結果だけを言えば、立ち合いはかなり激しいものになった。
ジャックの剣は、相変わらず読みにくい。
力で押し切るのではなく、相手の癖や迷いを見抜いて崩してくる。
一見すると軽い動きなのに、踏み込みの一つ一つが鋭い。
視線の揺れ。
呼吸の乱れ。
ほんのわずかな重心の移動。
そうした細かな変化を拾い上げて、容赦なく突いてくる。
レキサルの剣もまた、隙がない。
長年の経験に裏打ちされた、無駄のない動き。
派手さはないが、受けも攻めも安定している。
一度崩されれば、立て直すのが難しい。
二人を相手にしている間だけは、イヴァンスの頭から余計な考えが消えていた。
剣を合わせる。
踏み込む。
受ける。
かわす。
打ち込む。
ただそれだけを繰り返す。
身体が熱を帯び、額に汗がにじむ。
呼吸が少しずつ荒くなっていく。
それでも、剣を振るっている間は、胸の奥のざわつきがほんの少しだけ静かになった。
だが――。
「一旦ここまでにしよっか」
ジャックが声をかけ、立ち合いは終わった。
三人とも剣を下ろし、息を整える。
イヴァンスは肩で息をしながら、額の汗を手の甲で拭った。
身体は確かに疲れている。
腕も脚も重い。
それでも、胸の奥に残った重さは完全には消えていなかった。
むしろ、静かになった分だけ、余計に意識してしまう。
そんなイヴァンスを見て、ジャックが小さく笑った。
「……イヴァンス」
「はい」
「心、ここにあらずじゃない?」
その言葉に、イヴァンスの身体がわずかに固まった。
「……」
図星だった。
否定しようとしても、うまく言葉が出てこない。
ジャックは剣を肩に担ぎ、少しだけ首を傾ける。
「もしかして、何か悩んでんの?」
「うっ……」
思わず言葉に詰まる。
隠していたつもりだった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
だが、相手がジャックだったことを忘れていた。
人の感情の揺れを読むことに関して、彼ほど鋭い人物はいない。
しかも、こういう時の勘は妙に当たる。
「何となく噂話は聞いてんだけどね~」
ジャックは軽い調子を装いながらも、目だけは真剣だった。
「セーニャのことなんでしょ」
「……」
イヴァンスは黙り込む。
否定することはできなかった。
胸の奥に引っかかっているものの正体を、わざわざ隠す意味もない気がした。
しばらく沈黙した後、イヴァンスは小さく答える。
「……はい」
ジャックはやれやれといったように肩をすくめた。
「ごめんけどさ」
少しだけ声の調子が変わる。
いつもの軽口ではなく、ほんのわずかに真面目な響きが混じっていた。
「ここ、恋愛相談所じゃないのよね~」
「……はい」
「ぼくちゃんたちにアドバイスしてほしいっていうなら、お門違いってわけ」
言い方は相変わらず軽い。
だが、その言葉は妙に正しかった。
ジャックは恋愛の専門家ではない。
レキサルも、そういう話に長けているわけではない。
そもそも、他人に答えを求めたところで、セーニャの気持ちが分かるわけでもない。
レキサルも静かにうなずく。
「ふむ」
そして、穏やかな声で続けた。
「恋と申すものは、結局のところ自ら決着をつけるほかござりませぬゆえに」
「……そうですね」
イヴァンスも、それは分かっていた。
誰かに相談したところで、答えが見つかるわけではない。
この胸のざわつきは、自分で向き合うしかないのだろう。
それでも。
イヴァンスは剣を握ったまま、少しだけ視線を落とした。
「分かってます」
ぽつりと、そう言う。
「だから……立ち会ってほしかったんです」
「……」
「汗をかいて、身体を動かして」
一度、言葉を区切る。
喉の奥に引っかかっていたものを、ようやく形にするように。
「どこかで……割り切らなきゃって思ったから」
その言葉に、ジャックは少しだけ目を細めた。
軽口を叩くこともなく、しばらくイヴァンスを見つめる。
その表情には、からかいではなく、わずかな理解が浮かんでいた。
「そっか」
短い返事だった。
それ以上、余計なことは言わなかった。
イヴァンスが必要としているのは、答えではない。
誰かに背中を押されることでもない。
自分の中にある気持ちを、自分で受け止めるための時間なのだと、ジャックには分かっていた。
レキサルもまた、静かに目を伏せる。
何も言わない。
だが、その沈黙は冷たいものではなかった。
魔約の塔の静かな空間に、三人の呼吸だけが残る。
汗の匂い。
剣の金属音の余韻。
そして、言葉にしきれない思い。
イヴァンスはもう一度、木剣を握り直した。
まだ、完全には割り切れていない。
胸の奥には、どうしても消えないものがある。
セーニャのことを考えるたびに、心が揺れる。
それでも。
前へ進むために。
自分の気持ちと向き合うために。
今はただ、剣を振るしかなかった。
立ち止まっていても、答えは見つからない。
ならばせめて、身体を動かしながら、少しずつでも整理していくしかない。
イヴァンスは静かに息を吸い込み、再び構えを取った。




