姉が見たもの
放課後、近衛騎士団の訓練が始まる頃。
イヴァンスはいつものように訓練場へ足を運んでいた。
木剣を手に準備運動をしながら、無意識に周囲へ視線を向ける。
しかし、そこに見慣れた女の子の姿はなかった。
(今日も来ないか……)
ここ数日、セーニャは午後の訓練へ姿を見せなくなっていた。
教会の仕事が忙しいからという理由は聞いている。
それだけは本人から直接聞かされた。
あの日、申し訳なさそうに笑いながらセーニャは言ったのだ。
「ごめんなさい。たぶん、卒業まで難しいと思います。
ちょっと教会のことで忙しくなってまして」
イヴァンスが
「そうなのか。教会で何かあるの?」
「え? 教会で何をしてるのか?ですか。いや……その……」
珍しく言葉を詰まらせる。
視線を泳がせながら、頬を少し赤く染めた。
普段なら落ち着いていて、どんな相手にも柔らかく応じる彼女が、
あの時ばかりは明らかに動揺していた。
「ま、まあとにかく訓練場に顔を出せなくなってしまったんです。本当にごめんなさい」
そう言って、困ったように笑う。
結局、理由は最後まで教えてもらえなかった。
イヴァンスもそれ以上聞くことはできなかった。
無理に踏み込むのは違う気がしたし、
何より、セーニャがあそこまで言い淀むのなら、
きっと簡単に話せることではないのだろうと思ったからだ。
教会でセーニャしかできないような仕事もあるだろう。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
だが、頭では理解していても、胸の奥に残るもやもやは消えない。
訓練場の空気はいつもより少しだけ広く、少しだけ冷たく感じられる。
彼女が立っていた場所だけがぽっかりと空いているようで、
そこへ視線を向けるたびに、妙な寂しさが込み上げてきた。
グレッグの声だけが静かに響いていた。
◇
その日の夕食時。
ワーランの食堂はいつものように賑わっていた。
セラフィスとレッドシャドウの面々は、いつもの二階の部屋で食事をしていた。
イヴァンスはその部屋に行くのも気が乗らず、1階でレックを膝へ乗せたまま、
ぼんやりと食事を口へ運んでいた。
目の前の皿はちゃんと空いていくのに、味はあまり分からない。
フォークを動かす手もどこか鈍い。気づけば、視線は何度も食堂の入口へ向いていた。
「はぁ……」
思わず漏れたため息。
すると膝の上からも、
「ぴぃ~……」
と、小さなため息が聞こえてきた。
イヴァンスは思わずレックを見る。
レックも同じように肩を落とし、しょんぼりとうつむいていた。
小さな翼を少しだけ垂らし、丸い目もどこか寂しげだ。
その様子が妙に人間臭く、近くの席にいたクラリスが思わず笑う。
「どうしたの? イヴァンスもレックも。同時にため息ついちゃって」
イヴァンスは苦笑しながら肩をすくめたが、うまく言葉が出てこない。
代わりにレックが、イヴァンスの胸へ顔を擦り寄せた。
「ぴぃ……」
「レックも寂しいんでしょうね」
「寂しい?」
「最近セーニャさん、忙しくて全然抱っこしてくれないから」
「ぴぃ……」
まるで「その通り」と返事をするようにレックが小さく鳴く。
クラリスはくすりと笑った。
「レック、本当にセーニャが大好きなんだね」
「俺も最近全然会えてないけどね……」
その言葉に、自分でも少し驚く。
口にしてみて初めて、どれだけ会えていなかったのかを実感した。
以前なら毎日のように顔を合わせていた。
訓練場でも、廊下でも、食堂でも、気づけば近くにいた。
何気ない会話を交わすだけでも、あの明るい声を聞くだけでも、不思議と気持ちが軽くなったものだ。
それが今では、昼間に少し見かける程度。
午後の訓練にも来ない。
放課後も教会へ戻ってしまう。
同じ学園にいるはずなのに、以前よりずっと遠い存在になってしまった気がしていた。
その時だった。
「クラリス、ちょっと」
食堂の入口から、小さな声が聞こえた。
ベラミカだった。
夕食の配膳を終えたのだろう。
木のトレーを片手に、周囲を気にするように立っている。
これから二階にいるセラフィスやレッドシャドウの面々の世話へ向かうところらしい。
しかし、その表情はいつもより真剣だった。
クラリスは首をかしげながら振り返る。
「どうしたんですか?」
ベラミカは周囲を気にしながら、小さく手招きをした。
「ちょっと来て」
その声には、いつもの穏やかさとは違う緊張があった。
何かを確かめたいのか、それとも誰かに聞かれたくない話なのか。
クラリスもその空気を察したのか、すぐに席を立つ。
そしてベラミカが耳元で何かを囁いた。
「――――」
「えっ!」
思わずクラリスが大きな声を上げる。
慌てて自分の口を押さえた。
頬が一気に赤くなり、目を見開いたまま固まっている。
食堂中の視線が一斉にこちらへ向く。
「あ……ご、ごめんなさい」
照れ笑いを浮かべるクラリス。
周囲も何事かと首をかしげながら、それぞれ食事へ戻っていった。
だが、あの一瞬の反応だけで、何かただ事ではないと感じた者も少なくないだろう。
しかし、イヴァンスだけはその様子を不思議そうに見つめていた。
(何だろう……)
クラリスの驚き方も気になるし、ベラミカの真剣な顔も気になる。
何か重大な話をしているのは間違いないが、こちらにはまったく見当がつかない。
ベラミカもその視線に気付いたらしい。
「クラリス、こっち」
空いていた個室の扉を開けると、そのままクラリスの腕を引いて中へ入る。
扉が静かに閉まった。
◇
個室へ入るなり、ベラミカが小声で切り出した。
「クラリス、なんか聞いてないの?」
その声は低く、どこか焦りを含んでいる。
いつもの口調とは違い、明らかに何かを確かめようとしていた。
「私は何も……」
クラリスは困ったように首を振る。
両手を胸の前で軽く握り、どう答えればいいのか分からないという顔をしている。
「でもベラミカさん、お姉さんなんだから詳しいこと聞いてないんですか?」
「年末年始は里帰りもしてないから、詳しいことは聞いてないわよ」
ベラミカは腕を組み、少しむっとしたように答える。
だが、その表情の奥には、単なる不満ではなく、心配の色が濃く滲んでいた。
「でも、それって……」
クラリスは言葉を飲み込む。
ベラミカもまた、眉間にしわを寄せたまま小さく考え込んだ。
姉として気にかけていないわけではない。
むしろ気にしているからこそ、こうしてわざわざクラリスを呼び止めたのだろう。
「よく思い出して?」
「えっと……」
クラリスは記憶をたどる。
「そういえば、オルメスさんから指輪を買ってもらった話は聞いてますけど……」
その瞬間だった。
ベラミカは「ああ……」と納得したように息を吐く。
「あの指輪はオルメスからのだったの」
「通りで、ここのところセーニャの機嫌が良かったわけだわ」
ベラミカはそう言いながら、今日教会で見た光景を思い返していた。
最初は見間違いかと思った。
だが、あれを見てしまえば、誰だって同じことを考える。
セーニャがあの指輪を大切そうにしていたこと。
何度も手元を見つめていたこと。ほんの少し頬を染めていたこと。
そうした細かな仕草が、今になってひとつの線でつながっていく。
(まさか……そんなところまで進んでるなんて)
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
驚きと、少しの戸惑い、そして妙な納得が同時に押し寄せてきた。
今日教会で目にした光景と、オルメスから贈られたという指輪。
それらが結び付いた瞬間、ベラミカの中では一つの答えが出来上がっていた。
クラリスもまた、不安そうな表情を浮かべたまま、静かにベラミカを見つめていた。
個室の中には、しばし沈黙が落ちた。
外の食堂からは、相変わらず食器の音や笑い声が聞こえてくる。
だが、この小さな部屋の中だけは、まるで別の時間が流れているようだった。




