心ここにあらず
昼下がりの訓練場には、乾いた木剣の打ち合う音が響いていた。
ラプロスの剣技の授業。
本来ならイヴァンスが最も集中し、周囲を驚かせる時間である。
しかし今日の彼は違っていた。
「そこまで!」
ラプロスの声で模擬戦が止まる。
向かい合っていた相手は困惑したように首をかしげた。
「……どうした、イヴァンス?」
「え……?」
自分が呼ばれたことにすら、一瞬気付けなかった。
ラプロスは小さくため息をつく。
「もう一度だ」
「はい」
構え直す。
だが、相手が踏み込んできても反応が半拍遅れる。
慌てて木剣を合わせたものの、受け損ねた衝撃で体勢を崩した。
カンッ――。
木剣が地面へ転がる。
訓練場が一瞬静まり返った。
イヴァンスが木剣を取りに屈む。
「……申し訳ありません」
再び構えたものの、今度は足運びが乱れ、攻撃の軌道も甘い。
普段なら難なく受け流せる程度の一撃に押し込まれ、また体勢を崩してしまう。
さすがにラプロスも試合を止めた。
「そこまでだ」
低く響く声。
イヴァンスは木剣を下ろしたまま俯く。
ラプロスはゆっくりと歩み寄ると、その表情を見つめた。
「イヴァンスよ」
「……はい」
「そんな状態では怪我をするぞ。もう少し集中しろ」
いつものような雷が落ちることはなかった。
怒鳴る価値すらない。
そんな空気だった。
「は、はい。すみません」
か細い返事。
ラプロスは腕を組み、もう一度だけため息を漏らした。
「今日は無理に攻めなくていい。基本だけを確認していろ」
「……はい」
イヴァンスは素直にうなずいた。
だが、その視線は木剣に向いていても、心はまるで別の場所にあった。
(婚約……)
頭の中で何度も同じ言葉が繰り返される。
(セーニャが……婚約……)
剣を振る。
しかし、そのたびに先日オルメス聖騎士団長から聞かされた話がよみがえる。
――指輪を買ったこと。
――両家で食事に行ったこと。
――そして、指輪を買ってもらったと話した時の、あのセーニャの笑顔。
そんな光景ばかりが頭を埋め尽くし、剣筋はますます鈍くなっていく。
ラプロスは遠くからその様子を見ていた。
(まったく……らしくない)
何があったかは知らない。
だが、この少年がこれほどまでに集中を欠く姿など、これまで一度も見たことがなかった。
怒鳴れば戻る状態ではない。
だからこそ、何も言えなかった。
授業終了の鐘が鳴る。
「本日の訓練はここまで!」
ラプロスの号令で生徒たちは一斉に木剣を片付け始めた。
友人同士で今日の反省を話す者。
次の予定を相談する者。
笑い声があちこちから聞こえてくる。
そんな中、イヴァンスだけが一人、静かに訓練場を後にした。
足取りは重い。
普段ならセーニャと合流する時間だが、今日はそんな気力すら湧かなかった。
(……どうしたらいいんだ)
考えれば考えるほど答えは出ない。
祝福すべきなのか。
諦めるべきなのか。
それとも――。
「おやおや」
聞き慣れた、いや、できれば聞きたくない声が背後から聞こえた。
イヴァンスが振り向く。
そこには四人の男子が立っていた。
先頭に立つのはバリンス。
その左右にはカデフ、アセプト、そしてルフィン。
いつもの"バカでアール隊"である。
周囲を見回せば、ちょうどセーニャの姿はない。
どうやら彼女がいない瞬間を狙って待ち構えていたらしい。
バリンスは口元をゆがめて笑った。
「よう、イヴァンス」
返事をする気にもなれない。
そんな彼を見て、四人は顔を見合わせる。
そして最初に口を開いたのはカデフだった。
「あら、お聞きになりました? あの、う・わ・さ」
語尾を必要以上に伸ばした嫌味な口調。
すぐさまアセプトが芝居がかった表情で首をかしげる。
「なんですの、その、う・わ・さ」
待っていましたと言わんばかりにルフィンが大げさに目を丸くした。
「何でもセーニャさん、婚約指輪をもらわれたそうですわよ」
イヴァンスの肩がぴくりと震える。
その反応を見逃す四人ではない。
カデフは口元を隠しながら続けた。
「しかも両家の顔合わせがもうすでに終わってるとか。
あくまでも、う・わ・さ。ですけどね」
最後の"うわさ"だけをことさらに強調する。
アセプトもすぐに続いた。
「両家の顔合わせなんて、あとは結婚式の日程を決めるだけではないですか」
「その通りですわね」
ルフィンが大きくうなずく。
そして、とどめを刺すようにカデフが微笑んだ。
「卒業と同時って、う・わ・さ、ですわよ」
四人は顔を見合わせる。
ぷっと吹き出しそうになりながら、必死に笑いをこらえている。
完全にイヴァンスをからかうためだけの芝居だった。
だが、その一言一言は、今の彼の胸に深く突き刺さる。
否定できない。
否定する材料もない。
拳を握る。
何か言い返そうとしても、言葉が出てこなかった。
その沈黙こそが、四人には何より面白かった。
「おいおい、なんか元気ねえな」
バリンスがニヤニヤしながら一歩前へ出る。
そしてイヴァンスを指差し、これ以上ないほど得意げな笑みを浮かべた。
「へへん、いい気味だぜ。行こうぜ!」
四人は高笑いこそしなかったものの、勝ち誇ったような表情でその場を去っていく。
笑い声だけが廊下に残った。
イヴァンスは追いかけることもしない。
怒鳴ることもしない。
ただ、その場に立ち尽くしたまま、去っていく四人の背中を見送っていた。
やがて廊下には誰もいなくなる。
夕日だけが長い影を床へ落としていた。
イヴァンスはゆっくりと拳を開く。
握り締めすぎた掌には、爪の跡が赤く残っていた。
それでも胸の痛みだけは、少しも消えてはくれなかった。




