聞けなかった言葉
新しい年を迎え、帝都にもいつもの日常が戻ってきた。
長かった冬休みも終わり、翌日から帝国学園では新学期が始まる。
ストーン村から戻ったイヴァンスは、自室で荷物を片付けながら、小さく息を吐いた。
結局、村にいる間も答えは出なかった。
母から言われた言葉。
クラリスへ打ち明けた悩み。
そして、自分でも気づかぬうちに、セーニャのことばかり考えていたこと。
考えれば考えるほど、自分の気持ちははっきりしていくようで、
それでも最後の一歩だけは踏み出せずにいた。
オルメスとセーニャのことをどう受け止めるべきなのか。
自分は何を知りたくて、何を恐れているのか。
その答えは、時間が経てば自然と見つかるものだと思っていた。
だが、時間だけが過ぎても、胸のざわつきは消えない。
だからこそ、一つだけ決めたことがある。
「……まずは聞いてみよう」
オルメスとセーニャのことを。
噂ではなく、本人の口から。
そうすれば、自分も前へ進めるかもしれない。
そう思えたのは、ほんのわずかな勇気だったが、それでも今のイヴァンスには十分だった。
翌朝、ワーラン宿場で別れ際、イヴァンスはクラリスにその決意を打ち明けた。
クラリスはワーランで仕事があるため、ここで一度別れることになる。
「今日、セーニャに聞いてみようと思う」
クラリスは少しだけ驚いたように目を瞬かせたが、やがて静かに微笑んだ。
「そう」
「ようやく決めたのね」
「ああ」
イヴァンスは短く頷く。
「噂ばかり気にしてても仕方ないから」
「本人から聞く」
その言葉には、まだ少し迷いが残っていた。だが、以前のように立ち止まったままではいない。
クラリスは安心したように頷いた。
「それがいいわ」
「ちゃんと向き合いなさい」
「うん」
イヴァンスは素直に返事をした。
クラリスは少しだけ表情を和らげると、彼の肩越しに学園へ続く道を見やった。
「……気をつけて行ってらっしゃい」
「クラリスも、仕事頑張って」
「ええ」
そうして二人はワーラン宿場で別れた。
イヴァンスは一人で帝国学園へ向かう。
冬の朝の道は少し滑りやすく、石畳の上には夜のうちに降りた霜がまだ薄く残っていた。
歩きながら、彼は何度も胸の内で言葉を反芻する。
――聞くんだ。
――ちゃんと、本人に。
――曖昧なままにしない。
そう自分に言い聞かせるたび、少しだけ足取りが軽くなる。
だが、その一方で、もし本当に自分の想像していた通りだったら
どうするのかという不安も、じわじわと膨らんでいった。
だが――。
校舎へ近付くにつれ、何やら周囲が妙に騒がしいことに気付いた。
まだ始業前だというのに、学園の門をくぐる生徒たちの声がやけに大きい。
何人もの生徒が小声で顔を寄せ合い、同じ話題を繰り返している。
「あの指輪……」
「見た?」
「本当だったのね」
「やっぱりオルメス様からなのかな?」
女子生徒たちが小声で集まり、何度も同じ話題を口にしている。
その声は興奮と羨望が入り混じっていて、聞いているだけで内容がただ事ではないことが分かった。
「年末年始はオルメス様とファーリンで過ごしたって話よ」
「その時に買ってもらったのかしら?」
「あれ、絶対婚約指輪よね」
「いいなぁ……」
「私もオルメス様に指輪をプレゼントされたい」
「でも、聖騎士団長様だもの。」
「相手がセーニャさんなら納得かな。」
男子生徒たちの間でも同じだった。
「見たか?」
「ああ。」
「指輪してたぞ。」
「もう決まりじゃないか。」
「ファーリンで両家の顔合わせしたって話も聞いたぞ」
「やっぱり婚約したんだな。」
「そりゃそうだろ。あの二人ならな。」
「でも、あんなに早く決まるものなのか?」
「相手がオルメス様だぞ。普通じゃないだろ」
その言葉を耳にした瞬間、イヴァンスの足が止まりそうになる。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
――指輪。
――ファーリン。
――両家の顔合わせ。
聞きたくないはずの言葉が、次々と耳に飛び込んでくる。
「……」
イヴァンスは何も言えず、そのまま歩き続けた。
始業式は何事もなく終わった。
新年最初の挨拶を終え、各教室で担任から今年の予定などが説明される。
冬休み明けの空気はまだ少し緩んでいたが、
学園全体としてはすでに新しい一年へ向けて動き始めている。
やがて昼休みになり、いつものように
イヴァンス、セーニャ、プラーサ、マリーの四人は学園のカフェへ集まった。
窓際の席には冬の日差しが淡く差し込み、
温かい飲み物の湯気がゆっくりと立ちのぼっている。
昼食の皿が並ぶ中、四人の空気はいつも通り穏やかだった。
セーニャはいつも通り穏やかに笑っている。
その右手の薬指には、小さく輝く指輪がはめられていた。
光を受けるたびに、控えめながらも確かな存在感を放っている。
プラーサは何度も視線を向けていたが、なかなか聞き出せない。
気になっているのは明らかなのに、どう切り出せばいいのか迷っている様子だった。
マリーもまた、ちらりと指輪を見ては、何か言いたげに口を閉じる。
やがて意を決したようにプラーサが口を開いた。
「……セーニャ」
「はい?」
「その指輪って……どうしたの?」
セーニャは自分の右手を見下ろし、小さく笑う。
「ああ、これですか」
「オルメス様にいただいたんです」
その一言で、イヴァンスの動きが止まる。
プラーサも思わず目を丸くした。
「オ、オルメス様から?」
「ええ」
セーニャは少し照れたように笑う。
「あまり高価なものはダメですって申し上げたんですけど」
「押し切られてしまって」
「そうだったんだ……」
プラーサは引きつった笑みを浮かべる。
マリーは指輪を見つめながら微笑んだ。
「とても綺麗な指輪ですわ」
「ありがとうございます」
セーニャは嬉しそうに頷く。
「オルメス様も、かなりいろいろ悩んで選んでくださったみたいで」
「私も、とても気に入っているんです」
そう言って、愛おしそうに指輪へ視線を落とす。
その表情は、とても幸せそうだった。
さらにセーニャは少し頬を膨らませる。
「それに、オルメス様って失礼なんですよ」
「『セーニャはおっちょこちょいだから、なくしたり傷を付けたりしかねない。ちゃんと大切にするんだぞ』って。」
少し照れながら笑う。
「もう、子ども扱いなんですから」
その言葉を聞いた瞬間だった。
少し離れた席で昼食を取っていた生徒たちが、一斉にざわめき始める。
「……え?」
「やっぱり……」
「本当にオルメス聖騎士団長様から……」
「間違いないじゃないか」
「指輪を贈ったんだ……」
「しかも『ちゃんと大切にするんだぞ』って」
「もう婚約みたいなものじゃない?」
小さな囁きは、あっという間に周囲へ広がっていく。
「やっぱり年末年始のファーリンで決まったんだ」
「そういうことだったのね」
「だから祝賀パーティーでもオルメス様としか踊らなかったのか」
「全部つながったわ」
「最初からそういう関係だったのね……」
噂は瞬く間に尾ひれを付けながら学園中へ広がっていく。
イヴァンスは、そのざわめきを聞きながら静かに俯いた。
今日は、セーニャへ直接聞こう。
そう決めていた。
だが、嬉しそうに指輪を見つめるセーニャの姿を前にしてしまえば、
その言葉は喉の奥で止まってしまう。
――今さら何を聞くんだ。
――もう、答えは出ているじゃないか。
そんな思いだけが胸に残る。
自分が何を知りたかったのか、何を確かめたかったのか、その輪郭さえ曖昧になっていく。
「イヴァンス君?」
セーニャが不思議そうに顔を覗き込む。
「どうかしましたか?」
「あ……」
イヴァンスは慌てて笑顔を作った。
「いや。」
「何でもない」
その笑顔は、どこかぎこちなかった。
セーニャは少し首を傾げたが、深くは追及しない。
ただ、いつものように穏やかに微笑んでいる。
イヴァンスはその笑顔を見ながら、胸の奥で静かに息を吐いた。
聞くと決めていた言葉は、結局その日も口にすることはできなかった。




