支える者
放課後の近衛騎士団訓練場。
夕暮れが近づき、石畳の上には長い影が伸びていた。
訓練場には、木剣がぶつかり合う乾いた音と、
兵士たちの掛け声がまだわずかに残っている。
いつものように、イヴァンスは木剣を手にしてグレッグとの訓練に向かっていた。
汗ばむ手を軽く握り直しながら、今日も一振りでも多く、少しでも強くなろうと気を引き締める。
そんな気持ちで足を踏み入れたのだが、その日だけは少し様子が違っていた。
訓練場にはグレッグとオルメスの姿があった。
だが、オルメスはいつものように木剣を持っていない。
腕を組んで立っているだけで、訓練に入る気配もない。
普段なら、誰よりも落ち着いた様子で構えを取り、
イヴァンスの動きを見てくれるはずなのに、その日はどこか別の用事を抱えているようだった。
その姿を見て、イヴァンスは首を傾げた。
「オルメスさん、今日は訓練はしないんですか?」
「ああ……」
オルメスは少し申し訳なさそうに笑った。
いつもと変わらぬ穏やかな表情ではあるが、どこか忙しさを隠しきれていない。
「イヴァンス君、少しの間だけだが、君との訓練を休ませてもらいたい」
「え?」
思いがけない言葉に、イヴァンスは目を丸くする。
「何かあったんですか?」
「実はな……」
オルメスは少しだけ考えてから答えた。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「感謝祭で披露される巫女舞の練習に付き合うことになっているんだ」
「セーニャのですか?」
「ああ」
オルメスは頷く。
「今年の巫女舞は、去年までとは少し違う」
「聖歌を歌いながら舞うことになっていてね」
「それは……難しそうですね」
イヴァンスは素直に驚いた。
巫女舞について詳しく知っているわけではない。
だが、舞いながら歌うということが簡単ではないことくらいは分かる。
剣を振る時ですら、呼吸と身体の動きが合わなければ力を発揮できない。
それを歌いながら、さらに決められた動きを行うのだ。
しかも感謝祭という大勢の人の前で披露するとなれば、なおさら失敗は許されないだろう。
「そうだな」
オルメスは静かに頷く。
「舞だけなら、覚えた動きを繰り返せばいい」
「だが、歌を合わせるとなると話は別だ」
「呼吸の位置、身体の動き、声の出し方。すべてを同時に意識しなければならない」
「だから、少しでも力になれればと思っている」
その言葉を聞いて、イヴァンスは納得したように頷いた。
「なるほど……」
「オルメスさんなら、そういうところまで見てあげられそうですね」
オルメスは苦笑する。
「買いかぶりすぎだよ」
「私はただ、昔から知っている子が頑張っているから手伝っているだけだ」
「昔から?」
イヴァンスが聞き返す。
「ああ」
オルメスは懐かしそうに目を細めた。遠い昔を思い出すような、静かな眼差しだった。
「セーニャが帝都へ来た頃からだ」
「まだ十二歳だったからね」
「聖女として期待される重圧は、子供が背負うには大きすぎるものだった」
「だから、周囲の大人が支える必要があった」
その言葉を聞いて、イヴァンスは静かに頷いた。
セーニャが幼い頃から聖女として生きてきたことは知っている。
人々の期待を一身に受け、祈りと務めを果たしてきたことも。
だが、その裏で支えてきた人たちがいることを、改めて感じた。
表に立つ者だけではなく、その背後で見守り、助け、
時には叱りながら支える者がいるからこそ、今のセーニャがあるのだろう。
「オルメスさんがずっと支えてきたんですね」
「大げさだよ」
オルメスは笑う。
「私はできることをしていただけだ」
その時だった。
「オルメス様」
聞き慣れた声が訓練場へ響く。
三人が振り向くと、そこにはセーニャが立っていた。
淡い光を受けた白い衣装が夕暮れの空気に映え、
いつもより少しだけ急いできたのか、頬にはうっすらと熱が差している。
その表情は少し呆れたようであった。
「やっぱりここだったんですね」
「馬車だけ待たせているなんて、女の子に失礼ですよ」
「はは……」
オルメスは困ったように笑った。
「悪い悪い。少し話し込んでしまった」
「それじゃ、行こうか」
「はい、オルメス様」
セーニャは自然な動作で頷く。慣れたやり取りなのだろう。
オルメスの隣に立つ姿には、気安さと信頼がにじんでいた。
その様子を見て、イヴァンスは微笑んだ。
「セーニャ、巫女舞の練習、頑張って」
「ありがとうございます」
セーニャは振り返る。
「イヴァンス君も訓練頑張ってくださいね」
「ああ」
そう答えると、セーニャとオルメスは並んで訓練場を後にした。
その後ろ姿を見送りながら、イヴァンスは思う。
セーニャは本当に多くの人に支えられている。
そして、オルメスもまた、彼女のことを大切に見守っている。
それは以前から変わらないものなのだろう。
長い時間をかけて築かれた信頼は、言葉にしなくても伝わるものがある。
あの二人の間には、そうした静かな絆が確かにあった。
一方、馬車へ向かう道中。
石畳を踏む足音が、夕暮れの静けさの中に小さく響く。
訓練場の喧騒から離れると、周囲はすっかり落ち着いた空気に包まれていた。
遠くでは鐘の音が鳴り、感謝祭の準備を急ぐ人々の気配が街のあちこちに感じられる。
「オルメス様」
「なんだい?」
「また一人で抱え込んでいらっしゃったでしょう」
「そうかな?」
「そうです」
セーニャは少しだけ頬を膨らませる。
怒っているというより、心配しているのが見て取れる表情だった。
「オルメス様は昔からそうです」
「ご自身のことより、周りの人のことばかり考えて……」
オルメスは小さく笑った。
「それは君も同じだろう」
「え?」
「自分より先に、いつも誰かのことを考えている」
セーニャは少し驚いたように目を瞬かせる。
言い返そうとして、けれどすぐには言葉が出てこない。
図星を突かれたような、少し悔しいような顔をしたあと、ふっと肩の力を抜いた。
そして、二人は小さく笑った。
帝都へ来たばかりの頃。
右も左も分からなかった幼い少女。
人々の視線に戸惑い、与えられた役目の重さに押しつぶされそうになっていた少女。
その少女は今では、多くの人に慕われる聖女になっている。
祈りを捧げる姿も、舞台に立つ姿も、以前よりずっと凛として見える。
けれど、オルメスにとっては今でも変わらず、大切な存在だった。
「今日は無理をしないようにしよう。」
「はい。」
「ただし、本番で成功させるためには努力も必要だ。」
「分かっています。」
セーニャは微笑む。真面目な返事の中にも、どこか安心したような柔らかさがあった。
「だから、お願いしますね。」
「ああ。」
馬車は静かに動き出す。
車輪が石畳を転がる音を残しながら、二人は感謝祭へ向けた最後の練習へと向かっていった。夕暮れの空の下、その背中はどこか穏やかで、そして確かな覚悟に満ちていた。




