教会の夜
教会の食堂は、すでに夜の静けさに包まれていた。
祝賀パーティーの賑わいが嘘だったかのように、人の気配はほとんどない。
窓からは柔らかな月明かりが差し込み、長いテーブルの上を淡く照らしている。
その一角で、イヴァンスは一人、椅子へ腰を下ろして待っていた。
ベラミカに「待ってなさい」と言われてから、しばらく経った頃だった。
食堂の扉が静かに開く。
「お待たせしました」
聞き慣れた優しい声。
イヴァンスが顔を上げると、そこには普段着へ着替えたセーニャが立っていた。
純白のドレスではなく、いつもの落ち着いた服装。
それだけで、どこかいつものセーニャが戻ってきたような気がする。
「セーニャ」
イヴァンスは立ち上がる。そして周囲を見回した。
「あれ?」
「ベラミカ先生は?」
「お姉さまは帰ってしまいました」
セーニャは少し苦笑しながら答える。
「そうなんだ」
イヴァンスは少し意外そうに目を瞬かせた。
「イヴァンス君」
セーニャは柔らかく微笑む。
「お姉さまが二人分の食事を用意してくださっているので、準備しますね」
「え? 俺も手伝うよ」
「大丈夫です」
「すぐ終わりますから」
そう言ってセーニャは慣れた足取りで調理場へ入っていく。
教会で暮らしているだけあって、勝手知ったる場所なのだろう。
ほどなくして戻ってきたセーニャの手には、大きなお盆があった。
そこには、きれいに並べられたサンドイッチと、湯気の立つ温かなスープ。
豪華な祝賀パーティーとは対照的な、ごく普通の軽食だった。
「美味しそうだな」
「お姉さまが準備してくださいました」
二人は向かい合って席へ座る。
「いただきます」
声が重なる。それだけで、どこか懐かしかった。
サンドイッチを一口。温かなスープを口に運ぶ。
派手な料理ではない。
それでも、一か月ぶりにこうして向かい合って食事をしている時間は、不思議なくらい落ち着いていた。
しばらく食べ進めたあと、セーニャがふと笑った。
「……こんな普通のことすら、一か月もしていなかったんですね」
「ああ」
イヴァンスも苦笑する。
「なんだか懐かしい気がするよな」
「本当ですね」
昼休みに向かい合って昼食を食べていた日々。
放課後、皆で話しながら帰っていた時間。
それが当たり前すぎて、特別だと思ったことは一度もなかった。
だからこそ、一か月ぶりのこの時間が、こんなにも心地よく感じられるのだろう。
やがて二人は食べ終えた。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
食器を重ねる。
静かな空気が流れた。
その沈黙も、不思議と気まずくはない。
しばらくして、イヴァンスが小さく笑った。
「そういえば……」
「ん?」
「一か月もマリーさんにしごかれたのにさ」
「結局まともに踊ったのって、セラフィスさんだけだったな」
「あっ」
セーニャも思わず笑う。
「そうですね」
「私も、オルメス様と一曲だけでした」
「そうだったな」
イヴァンスは思い出すように頷く。
「セーニャも踊れるんだな。
なんか、セーニャって何でもできそうだ」
「そんなことありませんよ」
セーニャは少し照れながら笑う。
「でも、聖女は巫女舞だけじゃなくて、社交の場で踊ることもありますから」
「教会は貴族の方との関わりも多いですし」
「十二歳で帝都に来てから、少しずつ教えていただいたんです」
「へぇ」
イヴァンスは素直に感心した。
「やっぱり聖女って大変なんだな」
「確かに覚えることはたくさんありましたね」
セーニャは少し遠くを見るように微笑む。
「最初は私も何もできませんでしたから」
「でも」
イヴァンスは肩をすくめた。
「せっかく覚えたのに、お互い一曲だけって少しもったいなかったよな」
「ふふ」
セーニャも小さく頷く。
「そうですね」
再び静かな空気が流れる。
その静けさの中で、イヴァンスは少し考えるように視線を泳がせた。
そして、意を決したようにセーニャを見る。
「ねえ、セーニャ」
「はい?」
「俺と踊ってくれないか?」
「えっ?」
セーニャは少し驚いたように目を見開いた。
思いもよらない誘いだったのだろう。
だが、その表情はすぐに柔らかくほころぶ。
少しだけはにかみながら、小さく頷いた。
「……いいですよ」
その返事だけで十分だった。
イヴァンスも自然と笑顔になる。
しかし、セーニャはふと辺りを見回した。
「でも……」
「音楽がありませんね」
「あ……」
イヴァンスも苦笑する。
確かにその通りだ。
楽団もいない。誰かが演奏してくれるわけでもない。
その時だった。
「そうだ」
セーニャが小さく呟く。
「イヴァンス君」
「この聖歌、ご存じですよね?」
「え?」
次の瞬間。
静かな食堂へ、澄んだ歌声が響いた。
優しく、穏やかな三拍子の聖歌。
教会で何度も耳にしたことのある曲だった。
夜の静寂へ溶け込むように、セーニャの透き通った歌声が広がっていく。
イヴァンスは思わず見入ってしまった。
歌うセーニャは、昼間の祝賀パーティーで見た聖女とも違う。
学園で過ごすいつものセーニャとも違う。
静かな教会の中で歌うその姿は、まるで神へ祈りを捧げる一枚の絵画のようだった。
「イヴァンス君?」
歌いながら不思議そうに首を傾げる。
「あ……」
イヴァンスは我に返る。
「その曲なら知ってる」
「うまくダンスで合わせられそうだね」
そう言うと、イヴァンスはゆっくりと右手を差し出した。
「お願いします」
セーニャも微笑み、その手を重ねる。
イヴァンスはそっと彼女の身体を引き寄せた。
昼間のダンスとは違う。
周囲の視線もない。
拍手もない。
ただ二人だけの、小さなダンスだった。
セーニャの歌声に合わせて、一歩。
また一歩。
マリーに何度も教えられた足運びが、自然と身体から出てくる。
「本当に上手になりましたね」
「先生が厳しかったからな」
「ふふっ」
「でも、そのおかげですね」
「そうかも」
二人は笑い合う。
その笑顔は、学園でいつも見せていた自然な笑顔だった。
歌声は途切れることなく続く。
月明かりが窓から差し込み、二人を柔らかく照らしていた。
やがて教会の外から見れば、食堂の大きな窓には二人の影が映っていた。
静かな夜。
優しい聖歌。
そして、ゆっくりと踊る二つの影。
誰に見せるためでもない。
誰に祝福されるわけでもない。
ただ、一か月ぶりに戻ってきた、二人だけの穏やかな時間だった。




