教皇の小さな贅沢
祝賀パーティー会場。
華やかな音楽が流れ、学生たちの笑い声が絶えず響く中、
料理や装飾の一つひとつが祝祭の空気をさらに引き立てていた。
帝国学園の晴れ舞台にふさわしい、明るく賑やかな空間である。
だが、その場にあってなお、どこか物足りなさそうな表情を浮かべている人物がいた。
聖教会最高位。
リカルテオン教皇である。
「……」
並べられた料理を眺めながら、教皇は小さく息を吐いた。
豪華な料理は並んでいる。香りも悪くない。見た目も十分に華やかだ。
だが、彼の視線はどうしてもその先へ向かってしまう。
「どうした、リカルテオン」
その様子に気付いた人物が声を掛ける。
振り返ると、そこには皇帝ランジールが立っていた。
帝国の頂点に立つ男でありながら、今はどこか気安い顔で教皇を見ている。
「せっかくのセーニャの晴れ舞台ではないか」
「何をそんなに落胆しておる」
「ランジールか」
教皇は少しだけ顔を上げる。
「いやな……」
「実はの」
少し間を置いてから、ぽつりと本音を漏らした。
「高級な酒が飲めると思っておったのじゃ」
「……」
ランジールは一瞬黙った。
そして、ゆっくりと眉を上げる。
「……お主、本気で言っておるのか?」
呆れた声だった。
「当然じゃろう」
教皇は真剣な顔で答える。
「セーニャが帝国学園で立派に成長した姿を見る日じゃぞ?
儂としては、良い酒でも飲みながら祝いたいと思っておったのじゃ」
「リカルテオン」
ランジールは深いため息を吐く。
「ここは帝国学園の祝賀パーティーだ。
学生たちの祝いの席で酒が出るわけなかろう」
「それは分かっておる」
教皇は頷く。
「分かっておるが……」
「少しくらい期待するじゃろう?
セーニャの晴れ姿を見ながら、最高級の酒を一杯
そういう楽しみがあってもよいではないか」
「お主な……」
ランジールは額に手を当てた。
「聖教会の最高責任者が何を言っておるのだ」
「信徒の前では常に厳格な教皇として振る舞っておるのじゃぞ」
「だからこそだ」
教皇は胸を張った。
「儂だって少しくらい息抜きしたいのじゃ」
「昔、儂がちょっといい酒を飲みたいと言って騒いだことを忘れたのか?」
「忘れるわけがなかろう」
ランジールは即答する。
「お主、信徒の前では『慎ましく生きることが大切』などと言っておきながら、
儂の前では『儂だって人間じゃ』と言っておったからな」
「……」
教皇は少し気まずそうに目を逸らす。
「まあ……あれは四年ほど前の話じゃからの」
「十分最近ではないか」
「細かいことはよい」
教皇は咳払いをして話を逸らした。
「それより」
「最近は少しは贅沢できるようになったのではないか?」
ランジールが尋ねる。
「ニコラ会長に商会との繋がりを任せているのだろう。
聖教会の収入も以前とは比べ物にならんはずだ」
その言葉に、教皇は嬉しそうに頷いた。
「それについては感謝しておる。
実際、ニコラ会長には随分と助けられた」
「皇帝として、儂から直接頼んだのだ」
「聖教会の収入を増やす手助けをしてくれとな」
「……ほう」
ランジールは少し目を細める。
「お主が自分から頭を下げたのか」
「必要ならば下げる」
教皇は平然と言った。
「信徒への支援も増やせるようになった。
教会で働く者たちの待遇も、昔より遥かに良くなった。
ニコラには本当に助けられておるよ」
「商会との繋がりを整え、寄付や支援の流れも安定させた。
おかげで、以前のように綱渡りの運営をせずに済むようになったのじゃ」
「それは良いことだ」
ランジールは素直に頷く。
「ならば、少しくらい自分のために使えるのではないか?」
「それがの……」
教皇は小さくため息を吐いた。
「上がった給料は全部、嫁に持っていかれておる。
教皇とはいえ、家へ帰ればただの夫じゃからの」
「……」
ランジールは思わず黙る。
「お主……」
「まあ」
教皇は苦笑した。
「今まで苦労を掛けたからの」
「文句は言えん」
「それに、家では嫁の方が強い」
「教皇なのにか?」
「教会では儂が一番偉い」
「家では違う」
即答だった。
ランジールは堪えきれずに吹き出す。
「変わらんな、お主は」
「何を言う」
教皇はむっとした顔をしたが、すぐに肩をすくめた。
「儂だって、たまには良い酒を飲みたいだけじゃ」
「それがそんなに悪いことか?」
「悪いとは言っておらん」
ランジールは笑いを収めながら答える。
「ただ、教皇の口から出る言葉としては少々俗っぽいだけだ」
「俗っぽくて何が悪い」
「人は皆、俗世に生きておるのじゃぞ」
「信徒の前では言うなよ」
「言わんわい」
そんなやり取りをしていると。
「リカルテオン猊下」
優しい声が響いた。
振り返ると、セーニャが立っていた。
「今日は祝賀会へ参加していただき、ありがとうございます」
丁寧に頭を下げる。
その瞬間、教皇の表情が一変した。
先ほどまで酒がないことを嘆いていた老人とは思えないほど、嬉しそうな顔になる。
「おお、セーニャ」
「当然じゃろう」
「お主の晴れ姿を見るためなら、教会の予定など変更してでも来るわ」
「……」
横にいたテオール枢機卿が小さく呟く。
「実際に変更されたのは、どなたのご予定でしたでしょうか……」
「何か言ったか?」
教皇が振り返る。
「テオールよ」
「いえ」
テオールはすぐに姿勢を正した。
「何も申しておりません」
ランジールが首を傾げる。
「そういえば」
「今日はお主の説教の日ではなかったか?」
「……」
一瞬、教皇の動きが止まる。
「おお」
「そうじゃったかの?」
「何、大丈夫じゃ」
「ちゃんと日程は変更しておる」
「変更しておる、ではなく、変更したのだろう」
ランジールが呆れたように言う。
「お主、信徒に対する大切な行事ではないか」
「何を言っておる、ランジール」
教皇は真剣な顔で答える。
「セーニャの祝賀パーティーに参加しない」
「そんな選択肢が儂にあると思うのか?」
「……」
ランジールは何も言えなかった。
昔から変わらない。
帝国の頂点に立つ者。
聖教会の頂点に立つ者。
本来ならば簡単に並び立つことのない二人だった。
だが、長い年月を共に過ごした今では、肩書きを越えた友人のような関係になっていた。
そして、セーニャのことになると、教皇はただの老人になる。
「まったく……」
ランジールは苦笑する。
「教皇というのも、なかなか難儀なものだな」
「何を言う」
教皇は満足そうに笑った。
「セーニャの成長を見ること以上に、大切なことなどないのじゃ」
その言葉に、セーニャは少し照れたように微笑む。
ランジールもまた、その様子を見て静かに笑った。
「……まあ、そういうことなら仕方あるまい」
「だが次は、もう少し自分の楽しみも考えるがよい」
「高級な酒くらい、後でいくらでも用意してやる」
「本当か?」
教皇の目が一瞬で輝く。
「おお、さすがランジールじゃ」
「話が早い」
「ただし、今日は我慢しろ」
「それは無理じゃ」
「無理ではない」
「無理じゃ」
「……」
二人のやり取りを見て、セーニャはくすりと笑った。
祝賀パーティーの華やかな空気の中で、帝国と聖教会の頂点に立つ二人は、
まるで昔から変わらぬ友人同士のように言い合っている。
だが、そのやり取りの端々には、互いへの信頼と、
長い年月を共にしてきたからこその気安さがあった。
「猊下、なんだか楽しそうですね」
セーニャがそう言うと、教皇は満足そうに胸を張った。
「当然じゃ」
「ランジール皇帝を含め、いろんな人と話ができるからの」
そして、少しだけ声を落として続ける。
「……それに、セーニャの晴れ舞台じゃからの」
「こうして来られただけで十分じゃ」
その穏やかな笑みに、セーニャもまた柔らかく微笑み返す。
ランジールはそんな二人を見つめ、小さく肩をすくめた。
「……まったく」
「酒がなくても、今日は十分満足そうではないか」
教皇は照れ隠しのように笑い、
「それとこれとは別じゃ」
と言った。
その一言に、三人は思わず笑みをこぼすのだった。




