正式なプロポーズ
二人のデートも、気づけば夕暮れを迎えていた。
茜色に染まる帝都を後にし、二人はワーランへと戻る。
イヴァンスの部屋に向かう途中。
「少し部屋で待ってて、食事の準備してくる」
そう言ってクラリスは食堂へ向かう。
その背中はいつも通り落ち着いていて、慣れた足取りだったが、
イヴァンスにはどこか嬉しそうにも見えた。
今日一日、街を歩き、買い物をして、いくつもの店を覗いて回った。
その余韻がまだ二人の間に残っている。
だからこそ、こうして最後に静かな時間を過ごせることが、妙に特別に思えた。
しばらくして、夕食を乗せた盆を手にクラリスがイヴァンスの部屋を訪れた。
「お待たせ」
「おう、ありがとう」
盆の上には、温かいスープと焼きたてのパン、簡単な肉料理に、
彩りのある付け合わせが並んでいる。
派手な料理ではない。けれど、クラリスが自分のために用意してくれたのだと思うと、
それだけで胸の奥がじんわりと温かくなった。
今日は二階のレッドシャドウのたまり場ではなく、二人だけで食事をすることにした。
普段なら食卓は仲間たちの笑い声で賑やかになる。
誰かがふざけ、誰かが突っ込み、誰かが勝手に料理をつまみ食いする。
そんな騒がしさも嫌いではない。むしろ、あの空気はあの空気で心地よい。
だが今日だけは、この静かな時間を大切にしたかった。
向かい合って食事を始める。
木の椅子が小さく軋み、食器が触れ合う音だけが部屋に響く。
窓の外では月がさらに高く昇り、白い光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
食事の湯気がゆらゆらと立ち上り、その向こうでクラリスの横顔が柔らかく見える。
しばらくは他愛のない会話が続いた。
今日見た露店の話。途中で見かけた珍しい花の話。
帝都の通りで子どもたちがはしゃいでいた話。
どれも些細なことばかりだったが、二人で話していると、それだけで妙に楽しい。
気を張る必要もなく、無理に話題を探す必要もない。
ただ、思いついたことをそのまま口にできる。
それがこんなにも自然で、こんなにも心地よいのだと、イヴァンスは改めて感じていた。
そして、ふとイヴァンスが笑う。
「なんか久しぶりだな。二人で食事って」
「本当ね」
クラリスも微笑む。
「イヴァンスって周囲に人が寄ってくるタイプだから。私が独占するなんて無理だもの」
「なんか……ごめん」
イヴァンスは苦笑する。
自分ではあまり意識していないが、確かに昔からそうだった。
気づけば誰かが周りにいて、気づけば誰かに頼られている。
学園でも、ストーン村でも、彼の周囲にはいつも人が集まってくる。
賑やかなのは嫌いではない。むしろ、そういう空気に救われてきたことも多い。
だが、だからこそ、こうして誰にも邪魔されずにクラリスと向き合う時間は、
少しだけ照れくさくて、少しだけ贅沢だった。
「いいのよ」
クラリスは首を横に振った。
「それがイヴァンスのいいところなんだから」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「でも、たまにはこういう時間を作ってくれないと、私すねちゃうんだからね」
「はは……気をつけるよ」
そんな何気ないやり取りに、二人は自然と笑みを浮かべた。
食事を終えると、部屋には穏やかな静けさが流れる。
食器を片付ける音も、椅子を引く音も、いつもよりずっと小さく感じられる。
窓から差し込む月の光が、部屋を優しく照らしていた。
机の上に置かれたランプの灯りと月明かりが重なり、部屋の中には柔らかな陰影が落ちている。
外の喧騒は遠く、ここだけが切り取られたように静かだった。
イヴァンスはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開く。
「クラリスには……改めてお礼を言わないとな」
「突然どうしたの?」
イヴァンスは少し照れたように頭をかいた。
「帝国学園ってさ」
「うん」
「ビソップみたいな関係のやつがいないんだよ」
クラリスは黙って耳を傾ける。
イヴァンスの言葉は、いつもの軽口とは違っていた。
少しだけ慎重で、少しだけ不器用で、それでも真っ直ぐだった。
彼がこうして自分の内側を言葉にするのは、決して多くない。
だからこそ、クラリスも茶化さず、ただ静かに聞いていた。
「周りは名家の子たちばかりでさ」
「……」
「何となく同級生に馴染めなくて」
少しだけ視線を落とした。
「ずっとセーニャとプラーサ、それに近衛騎士団の人たちとしか付き合いがなかったんだ」
苦笑しながら続ける。
「だから……少し寂しかった」
その一言は、イヴァンスが今まで誰にも見せたことのない弱さだった。
仲間の前では頼もしい。誰かが困っていれば、自然と前に出て引っ張っていく。
そんな彼が、こんなふうに「寂しかった」と口にするのは珍しい。
けれど、その言葉には嘘がなかった。
むしろ、ずっと胸の奥にしまい込んでいたものを、
ようやく少しだけ外に出せたような、そんな不器用な安堵があった。
「帝都に来てくれて、本当に支えになってるんだ」
クラリスは優しく微笑む。
「あら」
少しだけからかうように言った。
「ずいぶん弱気なイヴァンスね」
「……」
「いつも皆を引っ張っていくイヴァンスは、どこへ行ったのかしら?」
「からかうなよ……」
イヴァンスは照れくさそうに笑う。
「誰にも話したことなかったんだぞ」
「ふふ」
クラリスは嬉しそうに笑った。
その笑みは、からかい半分ではあるものの、どこか本当に嬉しそうでもあった。
イヴァンスが自分にだけ見せてくれた顔。
自分にだけ打ち明けてくれた本音。それが何よりも嬉しかったのだ。
「どうした?」
「嬉しいのよ」
イヴァンスを真っ直ぐ見つめる。
「ちゃんと本心を話してくれて」
その笑顔は、どこまでも優しかった。
「一応、婚約者なんだからね」
「ああ」
イヴァンスはゆっくり頷く。
その言葉に、クラリスは少しだけ目を細める。婚約者。
何度も口にしてきたはずの言葉なのに、今夜はやけに重みがあった。
長い時間をかけて積み重ねてきた関係だからこそ、その一言が静かに胸へ落ちていく。
そして、イヴァンスはそっとポケットへ手を入れた。
取り出したのは、今日買ったラピラズリの指輪だった。
部屋の灯りを受け、青い石が静かに輝く。月の光を吸い込んだような深い青。
昼間に見た時よりも、夜の静けさの中ではいっそう美しく見えた。
小さな石なのに、不思議と目を離せない。
まるでこの瞬間のために選ばれたかのように、そこにあった。
イヴァンスは立ち上がる。
椅子が小さく音を立てる。クラリスも自然と背筋を伸ばした。
何を言うのか、もう分かっている。分かっているのに、心臓が少しだけ早く打つ。
そんな自分に気づいて、クラリスは内心で小さく笑った。
イヴァンスはクラリスの前まで歩み寄ると、静かに息を吸った。
「クラリス」
「なに?」
「俺は――」
ほんの少しだけ言葉に詰まる。
それでも、今度は迷わなかった。
「俺はこれから先、どんなことがあってもクラリスと一緒に歩いていきたい」
一度、そこで言葉を切る。
月明かりが二人の間に落ち、部屋の空気がさらに静かになる。
イヴァンスは指輪を握る手に力を込めた。
剣を握る時とは違う緊張が、肩にじわりと広がっていく。それでも、逃げる気はなかった。
「だから……俺と結婚してほしい」
クラリスは小さく息を吐くと、困ったように笑った。
「もう……遅いのよ」
その瞳は少し潤んでいた。
「あれだけ闘技大会で、婚約者の私に勝利を捧げるって言っておいて」
「正式な言葉はまだだったんだよ?どれだけ待ったと思ってるの」
そう言って、そっとイヴァンスの手を握る。
その手は、五歳の頃から何度も握ってきた手だった。
けれど今日だけは、これまでとは少しだけ意味が違っていた。
幼い頃の約束でも、ただの婚約でもない。長い時間をかけて、ようやくたどり着いた答え。
だからこそ、その手の温度がひときわ愛おしい。
ワーランの一室。
月夜に染まる窓には、寄り添う二人の影が静かに映っていた。




