冷酷無情のセラフィス
ワーラン二階――。
静かな部屋に、柔らかな沈黙が流れていた。
窓の外では、遠くの街のざわめきがかすかに届いている。
けれど、この部屋の中だけは、まるで時間の流れがゆっくりになったかのように静かだった。
セーニャは、先ほどまで聞いていたセラフィスの話を胸の中で何度も反芻していた。
ベラミカとカンサル。
二人との何気ない日常。
感情を失っていたセラフィスが、少しずつ笑い、困り、照れ、ようやく"人"として生き始めた時間。
それは、セーニャが想像していた以上に穏やかで、温かいものだった。
ただの仲間ではない。ただの部下でもない。
互いに支え合い、気づけば当たり前のように隣にいる。
そんな、かけがえのない日々だったのだろう。
だが、その最後にセラフィスはこう言った。
――その穏やかな時間も、決して長くは続かなかった。
その言葉の続きを聞くのが、少しだけ怖かった。
セラフィスは静かに目を伏せる。
「あの時間は、私にとって本当に幸せだった」
その声は、懐かしむようでもあり、遠い過去をそっと撫でるようでもあった。
「でも……」
ゆっくりと目を開く。
その瞳には、今もなお消えない痛みが宿っていた。
「今度は貴族派が、私の幸せを奪ったの」
◇ ◇ ◇
カンサルが帝都へ来て半年。
彼は正式に帝国魔導士団へ入団した。
幼い頃からアレグに鍛えられてきた魔術の才能は群を抜いており、
入団して間もなく中隊長へ昇進する。
さらに、事務能力にも優れていた彼は、
魔導士団長であるセラフィスの秘書役まで任されるようになった。
書類の整理、任務の調整、各部隊との連絡、
時にはセラフィスの暴走を止める役目まで担う。
本人は苦笑しながら引き受けていたが、
その働きぶりは誰の目にも明らかだった。団員からの信頼も厚い。
「いずれは副団長だな。」
そんな噂が、自然と口にされるほどだった。
一方、セラフィスも少しずつ変わっていた。
以前のように一人だけで任務を終わらせることは減り、
団員へ指示を出し、組織として魔導士団を動かすようになっていた。
必要なことを必要なだけ伝え、無駄を嫌いながらも、
以前よりずっと周囲を見るようになっていた。
笑うこともある。
困ったようにため息をつくこともある。
時にはカンサルの書類の山を見て「これは私の仕事じゃない」とぼやき、
ベラミカに「師匠、それ全部あなたの仕事です」と返されてむくれることもあった。
そんなやり取りが、いつしか当たり前になっていた。
魔導士団は、ようやく一つの組織としてまとまり始めていた。
翌年四月。
ベラミカが帝国学園へ入学する。
入学試験の結果は、歴代でも指折りだった。
魔術理論。
実技。
魔力量。
その全てが突出しており、教師陣でさえ驚きを隠せない。
試験官の中には、答案を見返して「本当にこの年齢か?」と呟く者までいたという。
卒業すれば間違いなく魔導士団へ入団する。
誰もがそう考えていた。
だが、その結果を最も警戒した人物がいた。
帝国宰相のカイルである。
セラフィス。
カンサル。
そしてベラミカ。
三人が揃えば、魔導士団は帝国内で絶対的な力を持つ組織になる。
しかも、彼らは単に強いだけではない。
互いに信頼し合い、補い合い、組織として完成しつつあった。
それは、貴族派の中心的な立場である宰相にとって、決して見過ごせるものではなかった。
やがて、罠が仕掛けられる。
ある日、カンサルは一人の貴族令嬢から突然声を上げられた。
「きゃあっ!」
甲高い悲鳴が帝都の中央広場に響き、周囲の視線が一斉に集まる。
令嬢は涙を浮かべ、震える肩を抱くようにして後ずさった。
「この方が……私の身体を触ってきたのですわ……」
静まり返る広場。
空気が凍る。
カンサルは目を見開いた。
「なっ……何を言っているんですか!」
「私は何も――」
だが、令嬢は首を横に振るだけだった。
まるで最初から用意されていた台詞を、ただなぞっているかのように。
「こんな方が魔導士団にいるなんて信じられません」
「私は貴族裁判を要求いたしますわ」
その一言で全てが決まった。
貴族裁判。
貴族の証言が絶対となる、その裁判で平民に勝ち目はない。
証拠など必要ないのだ。
判決は最初から決まっていた。
カンサルは弁明の機会すら十分に与えられず、帝都追放となる。
知らせを受けたセラフィスは皇帝へ直談判した。
だが。
「証拠がない以上、覆せぬ」
その返答しか返ってこなかった。
皇帝の声は冷たくはなかった。むしろ、どこか苦しげですらあった。
だが、それでも結果は変わらない。
帝国という巨大な仕組みの前では、個人の正しさなど簡単に押し潰される。
そして、さらに追い打ちをかけるような出来事が続く。
帝国学園を首席同然の成績で卒業したベラミカ。
当然、魔導士団への配属が決まると思われていた。
しかし辞令は違った。
帝国学園講師。
その一文を見た瞬間、誰もが言葉を失った。
レキサル学園長でさえ、苦い表情を浮かべるしかなかった。
宰相からの要請。
断れるはずがない。
学園に残ることが、彼女にとって最善だと説明されたとしても、
それが本心ではないことは誰の目にも明らかだった。
「仕方ないわね……師匠」
そう笑おうとするベラミカの姿が、セラフィスには痛々しく映った。
大切な仲間が、一人ずつ引き離されていく。
力はあるのに何もできない。守れない。
その現実が、セラフィスの胸へ静かに積もっていく。
悲しみ。そして怒り。
それまで眠っていた感情が、少しずつ形を変え始めていた。
そんな頃だった。
帝都を震撼させる事件が起きる。
不正官僚連続殺害事件。
帝国の裏で私腹を肥やしていた者たちが、次々と何者かに命を奪われていった。
被害者はいずれも、証拠を握り潰し、弱者を踏みにじってきた者ばかりだった。
犯人は近衛騎士団の中隊長、ボルックスだった。
事件は帝都全体を揺るがし、
ついにはグレッグ副団長が出動するほどの大事となる。
近衛騎士団も。
魔導士団も。
総出で捜索にあたったが、誰一人としてボルックスの足取りを掴めない。
事件の依頼が、ようやく彼女のもとへ回ってきた。
そして翌日。
セラフィスは、あっさりとボルックスを拘束していた。
ボルックスは瓦礫の中に膝をつき、静かに笑っていた。
「……見事です。私の負けですね」
セラフィスはゆっくりと歩み寄る。
その表情に勝者の喜びはない。
「あなたの自由は今日までよ」
青白い魔力がボルックスの身体を拘束する。
逃げることも、抵抗することもできない。
ボルックスは小さく肩をすくめた。
「私を帝国へ引き渡すのですか」
セラフィスは首をわずかに傾ける。
「何を言っているの?」
抑揚のない声だった。
「あなたは今日から私に従うの」
ボルックスの眉がわずかに動く。
「……私を?」
「そう」
「帝国に必要なのは、一人の英雄じゃない」
「強い組織よ」
「あなたには、その一員になってもらうわ」
ボルックスは数秒だけ沈黙し、やがて静かに笑った。
「罪人を部下にする、と」
「面白い発想ですね」
「勘違いしてるようね」
セラフィスの瞳は微動だにしない。
「強い組織に、罪人かどうかは関係ないわ」
「必要だから使う。それだけよ」
「どうするの?選択肢は従うか、ここで終わるか。その二つだけよ」
ボルックスはその瞳を見つめ、やがて観念したように目を閉じる。
「……承知しました」
「今日から、この命はセラフィス様にお預けします」
そのままセラフィスは皇帝のいる評議院へ転移した。
突然現れた二人に、重臣たちが騒然となる。
「何事だ!」
「侵入者か!?」
「いや、あれは……セラフィス殿か?」
ざわめきが広がる中、セラフィスは構わず男を床へ放り投げた。
鈍い音が響く。
「陛下」
静かな声だった。
だが、その場の誰もが息を呑むほどの威圧感を放っていた。
「この子、もらっていくわよ」
一拍置いて
「それと――これ以上、私を怒らせないこと。」
「いいわね?」
その一言に、誰も反論できなかった。
皇帝ランジールでさえ、思わず目を細める。怒っているのではない。
怒りを通り越して、何かを決意した者の顔だった。
次の瞬間。
セラフィスの姿は消える。
次に転移した先は、宰相の執務室だった。
突然現れたセラフィスに、宰相は椅子から立ち上がる。
「な、何事だ! セラフィス」
その言葉は途中で止まった。
殺気。
今まで感じたことのないほど濃密な殺意が部屋を満たしていた。
息を吸うことすら苦しい。
書類が震え、燭台の炎が揺れる。宰相は思わず一歩後ずさった。
「要求は一つだけよ」
セラフィスは静かに言う。
「この子の極刑回避を合法にしなさい」
感情を取り戻したはずの彼女は、今や誰よりも冷たい瞳をしていた。
その瞳には、迷いも、ためらいもない。
ただ、守るために必要なものを奪い取るという、静かな覚悟だけがあった。
その日。
皇帝ランジール。
宰相。
軍務卿。
法務卿。
四人だけによる極秘会議が開かれた。
重い沈黙の中で、何度も言葉が交わされ、何度も反論が潰され、最後に一つの結論へと辿り着く。
そこで、極刑条項に例外規定が制定される。
――皇帝陛下が帝国に有益と判断した場合、その者を上回る能力を持つ監督者の管理下に置き、帝国への奉仕を条件として刑の執行を猶予できる。
ごく限られた者へだけが知る、極秘の通達。
帝国民のほとんどは、その存在すら知らない。
だが、その裏で、帝国の法は確かに書き換えられた。
そして、その日から。
セラフィスは"力ある罪人"を集め始めた。
一人では守れない。
ならば、守れる者を集めればいい。
罪を背負っていても、力があるなら使う。
帝国にとって有益であるなら、引き取る。
そして、その者たちを自分の手で管理し、導く。
それが、彼女の答えだった。
ベラミカを遠ざけられ、カンサルを追放された悲しみ。
積み重なった理不尽への怒り。
その感情は、ようやく芽生え始めた心を静かに染め上げていく。
守るためなら、手段は選ばない。
その日。
"レッドシャドウ"を率いる冷酷無情のセラフィスが、静かに目を覚ました。




