感情の芽生え
ワーラン二階――。
静かな部屋の中で、セーニャはしばらく言葉を失ったまま、目の前のセラフィスを見つめていた。
シファレス。
セラフィス。
同じ身体に宿ったはずなのに、その在り方はあまりにも違う。
先ほどまで聞いていた話の中のセラフィスは、感情をほとんど持たず、
ただ使命だけを果たす人形のような存在だった。
だが今、目の前にいる彼女は、穏やかに笑い、
時には冗談を言い、相手をからかう余裕さえある。
その変化が、セーニャにはどうしても不思議でならなかった。
やがて、彼女はおそるおそる口を開く。
「セラフィス様……」
「なにかしら?」
「今のセラフィス様は、普通に笑ったり怒ったりしていますよね」
セラフィスは静かに目を細めた。
「ええ、そうね」
「それって……どのようなきっかけがあったんですか?」
その問いに、セラフィスはほんの少しだけ目を見開いた。
そして、ふっと柔らかく笑う。
「さすがセーニャね」
「そういうところ、私は好きよ」
セーニャは少し照れたように視線を逸らし、頬を赤らめる。
セラフィスは懐かしそうに天井を見上げた。
「きっかけは――ベラミカなの」
「お姉さまですか?」
「そうよ」
その一言とともに、セラフィスは静かに、あの頃の記憶へと意識を沈めていった。
◇ ◇ ◇
帝国魔導士団――。
セラフィスが魔導士団長へ就任してから、すでに二年が経っていた。
帝国最強。
その名は、今や大陸中に知れ渡っていた。
どれほど難易度の高い依頼であっても、彼女は決して失敗しない。
魔物討伐。
国境警備。
敵国の侵攻阻止。
危険な任務ほど、彼女は淡々と片付けていった。
一人で出向き、一人で終わらせ、一人で帰ってくる。
その圧倒的な実力に、異論を唱える者は誰一人いなかった。
だが――。
「今日も団長は一人か」
「近寄り難いんだよな……」
「話しかけても、必要最低限の返事しかしないし」
魔導士団の団員たちは、皆どこか遠巻きに彼女を見ていた。
無表情。無感情。
命令を告げる声は静かで、必要以上の言葉はない。
笑顔もなければ、怒りを露わにすることもない。
まるで感情を持たない人形。
そんな団長に、気軽に話しかけられる者などいなかった。
評議会もまた、頭を抱えていた。
実力は申し分ない。
いや、申し分なさすぎる。
だからこそ扱いが難しい。
命令を出せば完璧に遂行するが、協調性という意味ではあまりにも欠けていた。
団としての機能を考えれば、決して理想的とは言えない。
それでも、誰も彼女を外すことはできなかった。
強すぎる力は、時に組織をも黙らせる。
そんなある日のことだった。
魔約の塔。
セラフィスが机に積まれた書類へ目を通していると、扉が控えめに叩かれた。
「団長」
入室を告げる部下の声。
「面会希望者がおります」
セラフィスは書類から目を上げることなく、静かに答えた。
「……通して」
短い返事。
やがて扉がゆっくりと開く。
その瞬間だった。
部屋へ飛び込んできた少女が、セラフィスの顔を見るなり、勢いよく指を差した。
「見つけたわよ!」
あまりにも大きな声が、静かな部屋に響き渡る。
「シファレス様!」
「二年以上探したんだからね!」
セラフィスは、目の前の少女を無言で見つめた。
「……私はセラフィス」
「シファレスじゃない」
感情のない、淡々とした声だった。
だが少女は、まったく怯まない。
むしろ嬉しそうに目を輝かせる。
「分かったわ!」
元気よく頷いた。
「シファレス様じゃないのね!」
「じゃあ師匠って呼ぶわ!」
「……」
「いい? 師匠!」
「私は、あなたの師匠でもない」
「何言ってるのよ」
少女は呆れたように腰へ手を当てる。
「一度でも教えてくれたなら、師匠は師匠でしょ?」
「ちゃんと最後まで責任持って私を指導しなさい!」
その勢いに、部屋にいた団員たちは全員、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。
団長に対して、ここまで遠慮のない口を利く者など見たことがない。
しかも相手は、あのセラフィスだ。
普通なら、ただの一言で追い出されてもおかしくない。
だが少女は、そんな空気などまるで気にしていなかった。
その時だった。
「べ、ベラミカ……」
後ろから、慌てたような声が飛んでくる。
カンサルだった。
息を切らしながら部屋へ駆け込んできた彼は、少女――ベラミカの肩を掴む。
「やめろって!」
「どう見てもシファレス様じゃないだろ!」
「何言ってるの」
ベラミカは即座に言い返した。
「私の目はごまかせないわ」
「師匠は師匠よ」
あまりにも無茶苦茶な理屈だった。
カンサルは思わず頭を抱える。
「理屈になってないから!」
「でも、あの雰囲気は絶対そうだもの」
「雰囲気で決めるな!」
そんなやり取りを、セラフィスはただ静かに見ていた。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ事実を述べるように口を開く。
「私は、あなたの師匠ではない」
「何度言っても同じよ」
「……」
ベラミカは一瞬だけ黙ったが、あきらめた表情ではない。
「今日はいったん帰ってあげる」
「でもね」
彼女はセラフィスを真っ直ぐに指差す。
「逃がさないから!」
セラフィスは小さく首を傾げた。
「……私は逃げない」
その返事だけを残し、ベラミカとカンサルはその日は引き下がった。
だが、それで終わりではなかった。
翌日。
また来た。
翌々日。
また来た。
その次の日も。
さらにその次の日も。
毎日だった。
どれだけ追い返しても、どれだけ無表情で対応しても、ベラミカは懲りずに現れる。
扉を開ければそこにいる。
書類を読んでいれば声をかけてくる。
廊下を歩いていれば、当然のように隣へ並ぶ。
その執念深さに、団員たちは次第に呆れを通り越して感心し始めていた。
やがて一週間が過ぎた頃。
「今日からここに住むわ」
ベラミカは、当然のような顔で荷物を抱えたまま魔約の塔へやって来た。
「……何を言っているの?」
「だって師匠」
「生活できてないじゃない」
そう言って、彼女は部屋の中をぐるりと見渡した。
机の上には書類が山のように積まれ、読み終えた紙束が床にまで散らばっている。
食器は洗われないまま放置され、洗濯物は椅子の上に無造作に積まれていた。
寝室も整っているとは言い難く、必要なものだけが雑然と置かれている。
ベラミカは大きくため息をついた。
「もう!」
「これじゃ子どもと同じじゃない!」
その日から、彼女の生活介入は始まった。
「ちゃんとご飯食べる!」
「食べたら片付ける!」
「服は脱いだら洗濯籠!」
「お風呂は後回しにしない!」
「寝る前に部屋を片付ける!」
まるで母親のようだった。
いや、実際、母親以上に細かかったかもしれない。
最初のうち、セラフィスはほとんど反応しなかった。
「そう」
「分かった」
「……」
返事はそれだけ。
だがベラミカは、そんなことで諦めるような性格ではない。
毎日叱り。
毎日笑い。
毎日話しかけ。
毎日世話を焼き続けた。
カンサルもまた、呆れながらもその輪に巻き込まれていく。
「おい、ベラミカ、それはやりすぎだろ」
「いいのよ、これくらい」
「よくない!」
そんなやり取りが、魔約の塔では日常になっていった。
そして、そんな日々が半年ほど続いた頃だった。
「もう!」
ベラミカは頬を膨らませ、両手を腰に当てる。
「師匠!」
「ちゃんと話を聞いてるの?」
その瞬間だった。
セラフィスは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「もう……ベラミカ」
その声は、自分でも意外なほど自然に漏れたものだった。
「本当に……めちゃくちゃなの」
言葉を口にした瞬間だった。
セラフィスは、自分の口元へそっと手を当てる。
「……今のは」
小さく呟く。
「私は……言い返した?」
胸の奥に、今まで感じたことのない小さな揺らぎがあった。
それは単なる返事でも、命令でもない。
ただ、少しだけ呆れて、少しだけ困ってしまったような感覚。
「これが……感情?」
まるで初めて見る魔法でも確かめるように、セラフィスは自分の胸へ静かに手を当てた。
その様子を見たベラミカは目を丸くする。
「師匠……?」
カンサルも言葉を失っていた。
今までどんなことを言われても表情一つ変えなかったセラフィスが、自分の感情に戸惑っている。
それは二人にとっても、初めて見る姿だった。
それは、これまで一度も知らなかった感覚だった。
感情。
失われていたはずのそれが、ほんの少しだけ戻ってきていたのだ。
気が付けば、そんな日々は二年半も続いていた。
長いようでいて、振り返ればあっという間だった。
笑い、叱られ、食卓を囲み、何気ない会話を交わし、時にはくだらないことで言い争う。
そんな日常を積み重ねるうちに、セラフィスの中で止まっていた時間は、少しずつ動き始めていた。
感情を失った人形だった彼女は、いつしか笑い、困り、呆れ、
そして誰かを大切に思うことを覚えていく。
――だが、その穏やかな時間も、決して長くは続かなかった。




