セラフィス誕生
ワーラン二階――。
石造りの廊下の奥にある、謹慎用の一室。
昼間だというのに、部屋の中にはどこか薄暗い影が落ちていた。
セーニャは、目の前に座るセラフィスを静かに見つめていた。
つい先ほどまで語られていたのは、シファレスとアレグの物語。
どこかで見聞きしたような、ぼんやりとした記憶が胸の奥に引っかかっている。
けれど、それがはっきりと形になることはなく、あまりにも悲しい結末に、
セーニャはまだ言葉を失ったままだった。
胸の奥が重く、喉の奥に何かがつかえているようで、うまく息を吐くことさえ難しい。
部屋には重い沈黙が流れる。
その沈黙は、ただ静かなだけではなかった。
言葉にできない痛みや、長い年月の中で積み重なった後悔のようなものまで含んでいるように感じられた。
セーニャは膝の上でそっと手を握りしめる。
何か言わなければと思うのに、何を言えばいいのか分からない。
やがて、セラフィスが静かに口を開いた。
「あのあとね。シファレスは精神を完全に壊してしまったの」
淡々とした口調だった。
まるで他人の人生を語るような、落ち着いた声。
けれど、その声音の奥には、長い時間を経ても消えない疲れのようなものが滲んでいる。
「どこを彷徨っていたのか、その頃の記憶は私にも残っていないわ」
セーニャは小さく息を呑む。
「ただ、サーペインの正体だけは意外と簡単に分かったの」
セラフィスは続けた。
「ナピドラ連邦の議長付き軍事顧問。まあ、帝国で言えばディハンのような立場ね」
「そんな立場の方だったんですね……」
セーニャは小さく息を呑んだ。
ファーリン街道の野盗騒動のときから、
サーペインがナピドラの中枢に近い人物だということは、なんとなく察していた。
だが、こうして改めてはっきり聞かされると、その存在の重みが一段と増したように感じられた。
「ええ」
セラフィスは小さく頷く。
「そして、理由もその後に分かったわ」
セラフィスはセーニャを真っ直ぐ見つめた。
その瞳は静かで、けれど逃げ場を与えないほど真剣だった。
「アレグが魔国の出身だということは、セーニャは知らないわよね?」
「は、はい……」
セーニャは戸惑いながら答える。
「竜の紋様よ」
「竜の紋様?」
セーニャは目を丸くする。
「イヴァンス君とレックが結んでいる、あの竜の紋様ですか?」
「そう」
セラフィスは静かに頷いた。
「あなたもあの力を見たでしょう。あれは誰でも契約できるものではないの」
その言葉に、セーニャは無意識に息を止めた。
竜の紋様――それは、イヴァンスが発動した時に見せたあの圧倒的な力を思い返せば、
ただの魔術契約などとは到底言えない。
強い魔力と、相応の資質、そして何よりも選ばれた者だけが結べる特別な絆だ。
イヴァンスとレックの関係を思い出しながら、セーニャはゆっくりと頷いた。
「アレグはフェルトス魔国の王族だったわ」
「王族……」
「魔力量も、魔術師としての才能も当時最高クラスだった。
そして彼自身、竜の紋様と契約できる数少ない魔人だったのよ」
セーニャは驚きの表情を浮かべる。
「そんな……」
彼女の中で、アレグという人物像が少しずつ組み替えられていく。
悲劇の犠牲者であり、ただ殺された者だと思っていた男が、
実は魔国の王族であり、竜の紋様を結べるほどの才を持った人物だったという事実。
その重みは、想像以上だった。
「ナピドラ連邦は、フェルトス魔国との戦争を始める前に、
竜の紋様を契約できる者たちを秘密裏に始末していたの」
静かな口調。
だが、その内容はあまりにも重かった。
「アレグも、その一人だった」
部屋に沈黙が落ちる。
セーニャは拳を握り締めた。
そんな理由で、そんな都合で、人が消されていく。
戦争の準備という名目のもとに、未来を持つ者たちが先に潰されていく。
その残酷さに、胸の奥がじくりと痛んだ。
「そんな理由で……」
「ええ」
セラフィスは短く答えた。
そして、小さく息を吐く。
「その後、シファレスは禁断の魔法に手を出した」
「禁断の魔法……」
「その名は――カーネル・リザレクション」
聞き慣れない言葉に、セーニャは首を傾げる。
「カーネル・リザレクション……?」
「そう」
セラフィスの表情は変わらない。
「異なる次元に存在するデーモンロードを、この世界の自分自身に受肉させる魔法」
「今まで一度も成功したことのない禁断の召喚魔法よ」
「デーモンロードを……自分に……」
セーニャは信じられないという表情を浮かべた。
セラフィスは静かに続ける。
「どこで知ったのか」
「誰に教えられたのか」
「それとも、自力で辿り着いたのか……」
少しだけ目を伏せる。
「それだけは、今の私にも分からないわ」
再び静寂。
しばらくして、セーニャがおそるおそる口を開く。
「それで……どうなったんですか?」
セラフィスは迷うことなく答えた。
「シファレスは、その禁断の魔法を成功させたわ」
「えっ……」
セーニャは思わず声を上げる。
成功した。
たったそれだけの言葉なのに、その意味はあまりにも重い。
誰も成功したことがない禁術を、シファレスは成し遂げたというのだ。
「でも……今まで誰も成功していなかったんですよね?」
「ええ」
「今まで失敗していた理由は、挑戦した者が皆、魔導士だったからよ」
「魔導士……ですか?」
「そう」
セラフィスは頷く。
「セーニャも知っているでしょう」
「支援術師と魔導士、両方の力を持つ者はいないことを」
「はい」
セーニャはすぐに答えた。
「支援術師は慈愛の心」
「魔導士は強くなりたいという願望」
「相反する考え方だから、同時に持つことはできないと教わりました」
「その通りよ」
セラフィスは穏やかに頷く。
「カーネル・リザレクションは悪魔を受肉させる魔法」
「魔導士が使えば、自らの願望に悪魔が働きかける」
「願望は際限なく増幅され、精神は崩壊する」
「そして、そのまま死んでいくの」
セーニャは言葉を失う。
魔導士の願望を悪魔が刺激し、増幅し、飲み込んでいく。
強くなりたいという思いが、やがて自滅へと変わる。
あまりにも皮肉で、あまりにも残酷な仕組みだった。
「でも、シファレスは違った」
セラフィスはゆっくりと自分の胸へ手を当てた。
「シファレスの慈愛は、悪魔の力と真っ向から拮抗した」
「しかも、聖女筆頭を任されるほどの慈愛だった」
「だからこそ、デーモンロードの精神と均衡を保つことができたの」
セーニャは息を呑む。
慈愛と願望。救おうとする心と、支配しようとする力。
その二つがぶつかり合い、拮抗したからこそ、シファレスは壊れずに済んだのだろうか。
いや、壊れなかったというより、壊れたまま均衡を保ったのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
「それじゃ……」
セーニャは小さく呟く。
「誰も成功するはずがありませんね」
「その通りよ」
セラフィスは静かに微笑んだ。
「そして精神を病んでいたシファレスは、そのまま深い眠りについたわ」
「眠り……」
「でも、受肉したデーモンロードも完全には肉体を支配できなかった」
「相反する存在だったからよ」
部屋の空気が静かに張り詰める。
「そして、生まれたのが――セラフィス」
セーニャの瞳が大きく見開かれる。
「デーモンロードは、自分の精神が消える直前にこう言ったわ」
セラフィスは、その言葉を思い出すように静かに口にした。
「『sifares……serafis。相反するものだから、ちょうどいいだろ』」
部屋に沈黙が流れる。
「そうして、セラフィスが生まれたの」
セーニャは混乱したまま尋ねる。
「じゃあ……」
「今のセラフィス様は、シファレス様ではないんですか?」
その問いに、セラフィスは少しだけ考えるように目を閉じた。
長いまつげがわずかに影を落とし、彼女の表情を曖昧に隠す。
やがて、ゆっくりと目を開けた。
「シファレスではないことは事実ね」
静かな返答。
「ただ……」
少しだけ苦笑する。
「お転婆なセラフィスと、今ここにいる私が同じ存在なのかは
……私自身にも分からないわ」
そう言って、自分の胸にそっと手を当てた。
「記憶は共有している。でも、それだけ」
「だから私にも、自分が誰なのか……時々分からなくなるのよ」
その言葉に、セーニャは何も返すことができなかった。
目の前にいるのは、確かにセラフィスだ。
けれど、その中にはシファレスの記憶も、デーモンロードの残滓も、
そして彼女自身の意志もあるのだろう。
ひとつの身体に、いくつもの存在が重なっている。
その事実は、あまりにも重いものだった。
部屋には再び静かな沈黙だけが流れていた。




