穏やかな日々の終わり
ファーリン教会――。
柔らかな陽光が高いステンドグラスを通り抜け、
礼拝堂の床に赤や青、金の色彩を落としていた。
朝の祈りが終わったあとの教会は静かで、遠くで鳴る鐘の余韻だけが、
ゆっくりと空気の中に溶けていく。
その穏やかな空気の中、教会の一角では治療の祈りが続いていた。
「はい、もう少しだけじっとしていてくださいね」
白銀の髪を揺らしながら、シファレスは傷ついた村人の手にそっと手をかざした。
淡い光がふわりと広がり、裂けた皮膚がゆっくりと塞がっていく。
痛みに顔をしかめていた村人の表情が和らぎ、ほっと息をついた。
その隣で、小さな少女が同じように手を伸ばしていた。
セーニャ。
まだ三歳の、あまりにも幼い少女である。
小さな体に似合わないほど真剣な顔で、彼女はシファレスの動きをじっと見つめていた。
そして、教わった通りに両手を胸の前で合わせ、そっと傷口へ向ける。
「……できた!」
小さな声とともに、セーニャの手のひらからも柔らかな光が生まれた。
それはまだ拙く、シファレスのように安定したものではない。
けれど、軽い擦り傷や浅い切り傷なら十分に癒せるほどの回復魔法だった。
シファレスは一瞬、息を呑んだ。
「……セーニャ」
思わず小さく呟く。
通常、回復魔法の片鱗が現れるのは十歳前後。
早い者でも、まずは魔力の流れを感じ取るところから始まる。
それを考えれば、この年齢でここまで扱えるのは明らかに異常だった。
「もう一度やってみましょう」
驚きを隠しきれないまま、それでもシファレスは優しく微笑んだ。
セーニャは嬉しそうに頷き、今度は少しだけ深呼吸をしてから、もう一度手をかざす。
先ほどよりも光は安定していて、ほんのわずかだが、魔力の流れに迷いがない。
その様子を見守っていた周囲の者たちも、次第にざわめきを抑えられなくなっていた。
「……あの子、まだ三歳だろう?」
「今の、ちゃんと治っていたぞ」
「信じられない……」
その中の一人、聖教会の司教フェリックが静かに息を吐く。
普段は落ち着いた男だが、その目にははっきりと驚きが浮かんでいた。
「確かに……すごいな」
感嘆混じりの声だった。
「シファレスとセーニャが聖女として在籍してくれれば、ファーリンの聖教会は安泰だな」
冗談めかした口調ではあったが、その言葉には本気の重みがあった。
教会にとって、これほどの治癒の才は何よりも貴重だ。
しかもそれが、まだ幼い少女の中に芽生えているのだから、驚かない方が難しい。
シファレスは苦笑しながら、セーニャの頭にそっと手を置いた。
「よくできましたね」
「えへへ……」
セーニャは照れたように頬を赤くしながら、それでも嬉しそうに笑う。
「シフェ……フェ……シファレス様、私、頑張ります」
まだ上手く名前を言えない。そのたどたどしさが、かえって場の空気を柔らかくした。
周囲にいた修道士たちも思わず笑みをこぼし、張りつめていた治療の空気がふっと和らぐ。
「ゆっくりでいいですよ」
シファレスはそう言って、セーニャの髪を優しく撫でた。
その光景を見ていたベラミカは、腕を組みながら目を丸くする。
「我が妹ながら感心するわ」
「三歳でこれほどのレベルとはね」
軽口を叩きながらも、その声には純粋な驚きが混じっていた。
普段は気丈で、何事にも動じない彼女でさえ、セーニャの才能には目を見張らずにはいられない。
「本当ですね」
シファレスは穏やかに頷く。
「セーニャ、これからも頑張るのですよ」
「うん!」
元気よく頷いたセーニャの笑顔は、教会の白い壁に差し込む光のように明るかった。
その日から、セーニャは治療の手伝いをするたびに少しずつ成長していった。
できることはまだ限られている。
それでも、誰かの痛みが和らぐたびに嬉しそうに笑う姿は、
教会に集う人々の心を自然と和ませていく。
シファレスにとっても、それは何より嬉しいことだった。
この子はきっと、多くの人を救う。
そんな確信が、胸の奥に静かに芽生えていた。
そして、穏やかな日々はそのまま続いていく。
教会での治療を終えた午後、シファレスはセーニャを連れてアレグの家を訪れた。
そこは、魔法を学ぶ者たちが集う場所でもあった。
室内には複数の少年少女たちが集まり、真剣な表情で魔導の理論を学んでいる。
机の上には羊皮紙や魔法陣の図が並び、壁際には簡易の訓練具が置かれていた。
皆まだ若いが、目だけは真剣で、アレグの言葉を一つも聞き逃すまいとしている。
その中には、ベラミカとカンサルの姿もあった。
「魔力は感情で流れが変わる。まずは落ち着け」
アレグの声が響く。
静かでありながら、確かな指導者の声だった。
彼は黒板代わりの板に簡単な魔法陣を描きながら、ひとつひとつ丁寧に説明していく。
難しい理論も、彼の口から語られると不思議と分かりやすい。
ベラミカは真剣な表情で魔法陣を見つめ、カンサルもまた必死に魔力制御を行っていた。
何度か失敗しても、アレグはすぐに叱ることはしない。
ただ、どこで魔力が乱れたのかを指摘し、次にどうすればいいかを示す。
そのやり方に、皆が少しずつ慣れていく。
そこへ、玄関の扉が開いた。
「さあ、みんな」
シファレスがセーニャを連れて入ってくる。
手には籠いっぱいのサンドイッチが入っていた。
焼きたてのパンに、野菜やハムを挟んだ簡単なものだが、
彼女の手で作られたそれは、どこか温かい匂いをまとっている。
「お昼にしましょう。今日はたくさん作ってきましたよ」
その一言で、張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
「助かります!」
「ありがとうございます!」
子どもたちの声が重なる。
アレグも少し肩の力を抜き、微笑んだ。
「ちょうどいい休憩だな」
皆が席を立ち、サンドイッチを受け取っていく。
セーニャも嬉しそうに小さな手で包みを受け取り、もぐもぐと頬を動かした。
そんな何気ない昼食の時間さえ、彼らにとっては大切なひとときだった。
教会での治療、アレグの家での勉強、そして皆で囲む食事。
それは、何の不安もないように見える、あまりにも穏やかな日常だった。
笑い声があり、学びがあり、誰かのために手を伸ばす時間があった。
その日々が、ずっと続くのだと、誰もがどこかで信じていた。
だが――平穏は、いつまでも同じ形ではいられない。
ある日。
アレグの家へ向かう途中、シファレスはふと異変に気付いた。
いつもなら、扉の向こうから子どもたちの声や、アレグの落ち着いた指導の声が聞こえてくる。
けれど、その日は妙に静かだった。胸の奥に、言葉にできない嫌な予感が走る。
「……アレグ?」
呼びかける。
返事はない。
その瞬間、家の中から大きな音が響いた。
「――っ!」
シファレスは思わず扉を開け放つ。
そこに広がっていた光景は、信じがたいものだった。
アレグの胸に、黒衣の男の腕が深く突き刺さっていたのだ。
血の気が引く。
「アレグ……!」
その男はゆっくりと顔を向ける。
口元には笑みを浮かべている。ピエロのような不気味な衣装。
場違いなほど軽い仕草で、男はシファレスを見た。
「おや」
軽い声が響く。
「これは聖女のシファレス様ですね」
「私はサーペイン」
「以後お見知りおきを」
その言葉と同時に、男の姿は空気に溶けるように消えた。
テレポート。
追う術はなかった。
「アレグ!!」
シファレスは駆け寄る。
崩れ落ちる体を必死に支え、胸元に手を当てる。
だが、流れ出た血は止まらない。彼の体温が、みるみるうちに失われていくのが分かった。
「……シファレス」
かすれた声。
その目は、まだ彼女を見ていた。
「シファレス……愛し……」
そして――そのまま力を失う。
「アレグ……!」
叫びは教会の外まで響いた。
涙が止まらない。
何度呼んでも、返事は返ってこなかった。
数日後、アレグの葬儀が静かに執り行われた。
ファーリン中の人々が、その死を悼んだ。
教会には喪失の空気が満ち、誰もが言葉少なだった。
あれほど穏やかだった日々は、もう戻らない。
シファレスはその現実を受け止めきれないまま、ただ立ち尽くしていた。
そして――その日を境に、彼女は姿を消した。
穏やかな日常は終わりを告げた。
残されたのは、深い沈黙だけだった。




