忘れられなかった名前
ワーランの二階――。
謹慎用の一室の前に、セーニャは静かに立っていた。
周囲には、彼女とセラフィスしかいない。
廊下には人の気配もなく、しんとした空気だけが漂っている。
セーニャは目の前の女性へ、声をかけた。
「今日から私が見張り役を務めます。シフェラス様」
その瞬間だった。
「――っ!」
セラフィスの表情が凍りつく。
先ほどまで浮かべていた柔らかな笑みは一瞬で消え、瞳には強い動揺が宿った。
「……セーニャ」
低く、震えるような声。
次の瞬間、セラフィスはセーニャの腕を掴んだ。
「えっ? きゃっ!」
有無を言わせぬ勢いで引っ張られ、二人はワーラン二階の謹慎用の部屋へと入っていく。
扉が閉まる。
外の気配は完全に遮断され、部屋の中には静寂だけが満ちていた。
セーニャは困惑した表情のまま、セラフィスを見つめる。
「セ、セラフィス様……?」
そこに立っていた女性は、いつものお転婆で明るい雰囲気の女性ではなかった。
柔らかな笑顔も、茶目っ気のある仕草もない。
ただ真剣な表情でセーニャを見つめている。
その空気は、どこか神聖さすら感じさせた。
「セーニャ」
静かに名前を呼ぶ。
「さっき……シフェラス様って言ったわよね」
「え?」
セーニャはきょとんとする。
「あ、本当ですね。確かにそう呼びました」
「どうして?」
「え?」
「どうして私を見てシフェラスって声をかけたの?」
その問いに、セーニャは首を傾げた。
「どうして……と言われましても……」
少し考え込み、やがて懐かしそうに微笑む。
「私、小さい頃……シファレス様のお名前をどうしても覚えられなくて」
「……」
「何度教えていただいても、『シフェラス様』って言ってしまって……」
セラフィスは息を呑む。
「それで?」
「そのたびにシファレス様は怒らずに笑ってくださって」
セーニャは遠い記憶を辿るように目を閉じた。
「『セーニャ、名前を間違われると呼ばれた人は悲しいでしょう? だから、覚えられないなら何かに関連付けて覚えるといいのよ』って」
「……」
「確か……音符のお話をしてくださいました」
セラフィスの瞳が大きく揺れる。
「音符……」
「はい」
セーニャは小さく頷いた。
「だから今でも、その記憶だけは何となく残っていて」
そして少し照れくさそうに笑う。
「それに……」
「?」
「セラフィス様を見ていると、シファレス様の雰囲気を思い出すんです」
その言葉に、セラフィスは黙ったまま耳を傾ける。
「だからつい……シフェラス様って呼んでしまいました」
少し間を置いて、セーニャはふと疑問を口にした。
「でも、不思議なんです」
「不思議?」
「ファーリン街道でサーペインと対峙した時、『シファレス』って呼ばれていましたよね」
「ええ」
「でも、私の母やフェリック司教様がセラフィス様とお会いした時、お二人ともシファレス様とは思っていませんでした」
「……」
「だから、その時は人違いだったんだと思っていました……」
静寂が流れる。
セラフィスはゆっくりと目を閉じた。
そして、小さく息を吐く。
「そう……」
静かな声だった。
「セーニャは……おぼろげながらでも覚えていたのね」
その声音には、驚きと、どこか安堵が混じっていた。
「記憶は消えていても……心の奥底には残っていた」
セーニャは何が起きているのか分からないまま、ただ見つめ返す。
セラフィスは静かに微笑んだ。
だが、その笑みはいつもの無邪気なものではない。
どこか悲しみを帯びた、大人びた笑みだった。
「いいわ」
覚悟を決めたように口を開く。
「セーニャ」
「はい」
「あなたには真実を知ってもらう」
「真実……?」
「今から話すことは、カンサルとベラミカしか知らない昔のお話」
セラフィスは静かに目を閉じた。
「――私が、まだシファレスだった頃のお話よ」
◇ ◇ ◇
柔らかな春の日差しが降り注ぐ教会の庭。
花壇には色とりどりの花が咲き、小鳥たちが楽しそうにさえずっている。
その中を、小さな女の子が元気よく走ってきた。
「シフェラス様ー! こんにちは!」
満面の笑み。
三歳になったばかりのセーニャだった。
その声を聞いた瞬間、近くにいた少女が額に手を当てる。
「もう!」
腰に手を当てて立ち上がる。
十一歳になったベラミカだった。
「セーニャ!」
「は、はい!」
「何回言ったら覚えるの!」
ベラミカは指を立てて言う。
「シフェラス様じゃありません!」
「シファレス様!」
「シ・ファ・レ・ス様!」
一文字ずつ区切って教える。
「ちゃんと覚えなさい!」
勢いに押され、セーニャの目に涙が浮かぶ。
「ご、ごめんなさい……」
今にも泣き出しそうになる。
そんな様子を見て、一人の女性がくすりと笑った。
「まあまあ、ベラミカ」
穏やかな声。
白銀の髪を風になびかせながら、シファレスは優しく歩み寄る。
「そんなに怒らないであげて」
「でも!」
「セーニャはまだ三歳なんですよ」
困ったように笑う。
「覚えられなくても仕方ありません」
「もう!」
ベラミカは頬を膨らませる。
「シファレス様はセーニャのことになると本当に甘いんだから!」
腕を組んでぷいっと横を向く。
「注意するところはちゃんと注意してください!」
「はいはい」
シファレスは苦笑した。
「分かっていますよ」
そしてしゃがみ込み、セーニャと目線を合わせる。
「セーニャ」
「……はい」
「名前を間違われた人は悲しいの」
「……うん」
「セーニャだって、お名前をちゃんと覚えてもらえたら嬉しいでしょう?」
「うん!」
「だから、できるだけ頑張って覚えましょう」
セーニャは一生懸命頷いた。
「でも……どうしても覚えられない時は」
シファレスは人差し指を立てる。
「少しだけコツを使うの」
「コツ?」
「そう」
優しく微笑む。
「何かに関連付けて覚えると忘れにくいのよ」
「関連付け?」
「例えば私の名前」
シファレスは地面に指で文字を書く仕草をした。
「シ・ファ・レ・ス
」
「うん」
「セーニャは『ファレをフェラ』って言ってしまうでしょう?」
「うん!」
「『ファ・レ』は音符でしょう? 『フェ』という音符はないの。
だから『ファ・レ』を思い浮かべれば間違えないわ」
「音符?」
「そう」
シファレスは空中に五線譜を描くように指を動かした。
「ファ、レ」
「本当だ!」
セーニャの瞳が輝く。
「音符だ!」
「そうでしょう?」
「それなら覚えられる!」
嬉しそうに両手を胸の前でぎゅっと握る。
「シフェラス様!」
その瞬間シファレスとベラミカは顔を見合わせた。
そして同時に苦笑する。
「……少しずつね」
「ええ。ゆっくり覚えていけばいいんですよ」
そんな二人を見て、セーニャは首を傾げる。
「え?」
その無邪気な姿に、二人は思わず笑い声を上げた。
春の陽射しの中。
教会には穏やかな笑い声が、いつまでも響いていた。




