般若の面の下
帝都中央区――宿屋ワーラン。
闘技大会を終えたその夜、帝都の空気はまだ熱を帯びていた。
歓声の余韻が街のあちこちに残り、酒場や食堂では今日の試合を肴にした話題が尽きない。
そんな中、ライブリオ隊の四人はクラリスから「夕食をご一緒しませんか」と誘われ、
この宿屋を訪れていた。
扉を開けると、ワーランの食堂はいつも通りの賑わいを見せていた。
木のテーブルには旅人や商人たちが肩を寄せ合い、
香ばしい肉の匂いと焼きたてのパンの匂いが混じり合っている。
笑い声、食器の触れ合う音、給仕たちの足音。
そのどれもが、戦いの後の高揚を少しだけ和らげてくれるようだった。
そんな中、カウンターの向こうにいた女将ルシアナが顔を上げた。
「ああ、ライブリオか」
「こんばんは、ルシアナさん」
ライブリオが軽く頭を下げると、
ルシアナはいつものように気さくな笑みを浮かべながら親指で奥の階段を指差す。
「二階へ行きな」
「二階ですか?」
「ああ」
女将は肩をすくめ、少しだけ意味ありげに笑った。
「騒がしい部屋があるから、そこだよ」
「……騒がしい部屋?」
ライブリオは首を傾げたが、ルシアナがそれ以上説明する気がないのを見て、
とりあえず言われた通り階段へ向かった。
ネーミア、テミール、カンサルもその後ろに続く。
階段を上がるにつれ、食堂の喧騒は少しずつ遠のき、
代わりに二階の廊下に響く笑い声が耳に届いてきた。
廊下を進むと、一室だけ妙に賑やかな気配が漏れている。
笑い声に混じって、誰かが椅子を引く音や、食器を置く音まで聞こえてくる。
「ここだな……」
ライブリオが扉の前で立ち止まり、軽くノックした。
「どうぞー!」
即座に返ってきた明るい声に、ライブリオは少しだけ肩の力を抜く。
扉を開けると、まず目に飛び込んできたのはクラリスの満面の笑みだった。
「ライブリオさん、いらっしゃい!」
彼女はぱっと両手を広げるようにして迎え、続けざまに声を弾ませる。
「それと、おめでとう!」
「お、おう……クラリスちゃん」
ライブリオは少し照れ臭そうに頭を掻いた。
闘技大会の勝利と、その後の出来事を思い出して、頬がわずかに熱くなる。
「ありがとう」
するとクラリスは、今度は両手を腰に当てて、少しだけいたずらっぽい顔をした。
「でもね」
「はい?」
「前みたいに私のこと口説こうとしたら、ネーミアさんにお仕置きしてもらうからね」
その一言で、部屋の空気がぴたりと止まった。
ライブリオの頬が引きつる。
「は、はは……」
乾いた笑いしか出ない。
視線をそっと横へやると、ネーミアが腕を組んだまま、じっとこちらを見ていた。
その目は笑っているようで笑っていない。
むしろ、少しでも余計なことを言えば本当に何かが飛んできそうな鋭さがある。
「大丈夫だよ」
ライブリオは慌てて両手を振った。
「もう他の女性に手を出す気なんてないから!」
「本当に?」
ネーミアが静かに問い返す。
「もちろん!」
ライブリオは即答した。
「今はもう、そんな余裕ないっていうか……いや、
そうじゃなくて、ええと……とにかく、もうない!」
「ならいいけど」
ネーミアが小さく笑う。その笑みを見て、クラリスも満足そうに頷いた。
「じゃあ入って!」
ライブリオたちはようやく部屋へ足を踏み入れる。
そして――。
その場で、全員が固まった。
「…………」
視線の先にいたのは、見覚えのある顔だった。
一人目。
帝都連続切り裂き事件――人斬りジャック。
二人目。
元近衛騎士団員――不正官僚連続殺害事件の首謀者、ボルックス。
さらにその隣には、アーカット幻惑連続殺人事件で名を轟かせたスランザまでいる。
帝都を震撼させた凶悪犯たちが、
まるで旧知の仲のように食卓を囲み、平然と食事をしていた。
「…………え?」
ライブリオの思考が止まる。
「今日はお疲れ~」
ジャックが肉を頬張りながら、ひらひらと手を振った。
あまりにも気安い態度に、ライブリオはますます混乱する。
「お、お疲れって……」
ようやく声を絞り出した。
「俺たちの対戦相手、お前たちだったのか?」
「そうだよ~」
ジャックは楽しそうに笑う。
「ぼくちゃんとレキサル」
自分を指差し、続けて隣を示す。
「ぼくちゃんがダークソウル」
「レキサルがブラッドボーンなのよね~」
その隣で、レキサルが優雅に紅茶を口へ運んだ。
静かな所作だけを見れば、どこか高貴な貴族のようですらある。
「やっと般若の面より解き放たれたる次第にてござりまする」
その名前を聞いた瞬間、ライブリオの目が大きく見開かれた。
「……待て」
思わず一歩前へ出る。
「レキサルって……」
声が震えるのを自覚しながら、彼は目の前の男を見つめた。
「まさか、あのジパンのレキサルか?」
部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなる。
「ジパン最恐の剣士って言われてた……」
「……あのレキサルなのか?」
レキサルは少しだけ目を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。
「ふむ」
「それは昔日のことにてござりまするな」
否定しなかった。
その事実だけで十分だった。
ライブリオだけではない。ネーミアも、テミールも、カンサルも、全員が言葉を失っていた。
目の前にいるのは、帝国中を震撼させた凶悪犯たち。
しかも、その中にはジパン最強格の剣士まで混じっている。
それが、近衛騎士団特殊任務部隊レッドシャドウ。
「……そういうことか」
ライブリオはようやく理解したように呟いた。
「だからあんなに強かったのか」
すると、部屋の奥から気安い声が飛んできた。
「おう、久しぶりだな」
スランザが片手を上げる。ライブリオが振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
かつてアーカットで暴れ回り、極刑になったと聞かされていた女だ。
「スランザ……」
思わず苦笑が漏れる。
「生きていたのか」
「お前、あの事件で極刑になったって聞いてたぞ」
「まあな」
スランザは肩を竦めた。
「あの町であれだけ暴れたからな」
苦笑しながら、どこか他人事のように続ける。
「そのあと拘束されて、今はセラフィス様に監視されてるってわけさ」
「セラフィス様?」
ライブリオが首を傾げる。
「この隊の管理者なのか?」
「管理者?」
スランザは短く笑った。
「まあ、そうとも言うな」
だが次の瞬間、その表情がほんの少しだけ真面目になる。
「でも、あたいらからすればちょっと違うんだけどな」
「違う?」
「死刑執行人だ」
部屋が静まり返る。
スランザはあっさりと言い切った。
「だから、おとなしく従ってるってわけさ」
ライブリオは思わずジャックを見る。ジャックも肩を竦め、苦笑を浮かべた。
「ぼくちゃんたち、生殺与奪全部セラっちに握られてるからね~」
「逆らうと?」
ネーミアが恐る恐る尋ねる。
ジャックは何でもないことのように首筋へ手を当て、
横へすっと振ってみせた。首を切られる、という意味をあまりにも露骨に示す仕草だった。
「消されるよ~」
あまりにも軽い口調だった。
その場にいた全員が、思わず息を呑む。
だが、そんな空気を見てもなお、セラフィスだけはいつものように楽しそうに笑っていた。
「だからみんな、お利口さんなのよ♪えらいでしょ?」
その時だった。
コンコン。
扉が軽く叩かれる。
「失礼します」
聞き慣れた声と共に扉が開いた。
「あ、イヴァンス君たちだ」
セラフィスが笑顔を向ける。
イヴァンス、セーニャ、そしてベラミカたちが部屋へ入ってきた。




