遺されし意志
ドラゴンの輪郭を取り囲む光が、わずかに揺らいだ。
霞のようにほどけ、薄れていく。
それは、存在が崩れゆく予兆。
「……時間が、ありません」
低く、静かな呟き。
その言葉を合図に――空気が、再び張り詰めた。
セラフィスの瞳が鋭く細められる。
「……実体化の時間が、
もうそれほど残されていないのね」
確認するように。だが、その声に迷いはない。
ドラゴンは、ゆっくりと、深く頷いた。
「……はい、シファレス様」
穏やかな声音は、
どこか遠い場所から届いているかのようだ。
「思念体とは――霞のごときもの。うたかたの夢のようなもの」
一拍。
「私に残された刻は、それほど多くはありません」
淡々とした述懐。
だが、その響きの奥底には、
別れを静かに受け入れた者特有の凪があった。
「……ぴぃ……」
セーニャの腕の中で、レックが小さく鳴いた。
寂しさを滲ませた、すがるような声。
ドラゴンの視線が、ゆっくりと降りる。
慈しむように。どこまでも、優しく。
「レック……」
その名を、静かに呼ぶ。
「あなたには、もう――たくさんの仲間がいるではないですか」
視線が、セーニャへ。
そして、倒れているイヴァンスへと移る。
「……守る者も、支える者も」
わずかに目を細め、ドラゴンは続けた。
「それでも――」
一拍。
「いずれ、あなたの父を頼りなさい」
その言葉が落ちた瞬間、世界がわずかに震えた。
新たな“宿命”の気配を報せるかのように。
「今すぐではありません。
ですが必ず
――彼はあなたの力になってくれるはずです」
レックが、小さく震えた。
意味を理解しているのかは分からない。
それでも、その言葉を確かに“魂”で受け取ったように見えた。
そして――ドラゴンの視線が、再びセラフィスへと戻る。
「シファレス様」
呼び声に、わずかな重みが宿った。
「私と……魂を重ねていただけますか」
静かな申し出。
だが、それが持つ意味の重さは明白だった。
ベラミカが息を呑む。
レキサルも、わずかに目を細める。
ジャックは、口元の笑みを完全に消していた。
ドラゴンは続ける。
「レックの怒りの感情による力の発露――」
一拍。
「その抑え方を、お伝えいたします」
それは単なる技術の伝授ではない。
記憶そのものの継承。
セラフィスは、一瞬だけ瞼を閉じた。
それは迷いではなく、
覚悟を刻むための沈黙。
そして――静かに、頷く。
「……いいわ。やりなさい」
その言葉と同時に。
セラフィスが、両手を静かに合わせる。
掌が、淡く光を帯びる。
魔力よりもさらに深い
――存在の根源である“意識の層”が、
今、接続されようとしていた。
ドラゴンの輪郭がいっそう激しく揺らぐ。
崩壊は、もう、すぐそこまで迫っている。
それでも、その双眸だけは、
凛とした強い光を宿し続けていた。
「……お願いします」
次の瞬間。
二つの光が――重なった。
光が、ゆっくりとほどけていく。
重なっていた“意識”が、静かに離れていく。
空気が戻る。
だが――どこか、
世界の層が一枚剥がれたような違和感だけが残っていた。
セラフィスは、ゆっくりと目を開ける。
「そう……レックに、この魔法をかければいいのね」
静かな確認。
ドラゴンは、淡い光を散らしながらわずかに頷いた。
「はい――レイジ・オーバーフロー・ロック」
その名が紡がれた瞬間、
周囲の空気が共鳴するように微震した。
「怒りの暴走を防ぐための魔法です」
穏やかな説明。
だが、その言葉に宿る重みは隠しようもない。
「我々竜族が、感情を制御できなくなった際の――非常手段」
一拍。
その言葉が意味するものを、誰もが察する。
「発露そのものを“封じる”のではありません」
ゆっくりと続ける。
「溢れ出す力の“経路”を制御し、暴走へと至る連鎖を断ち切る」
セラフィスの瞳が、わずかに鋭さを増す。
「……つまり、
引き換えに本来の力は出せなくなる、ということね」
「はい」
即答だった。
「怒りによって引き出される本来の力――その一部は抑えられます」
わずかな間。
「ですが、命を燃やし尽くすよりは
――遥かに良い選択かと」
迷いのない告白。
セラフィスは、溜めていた息をゆっくりと吐き出した。
「……ええ、そうね」
短く応じる。
視線は、セーニャの腕の中で小さく震えるレック、
そしてその傍らで横たわるイヴァンスへと向けられた。
「この子は、もう一人じゃないもの」
ぽつりと呟く。
それは確認でもあり、決意でもあった。
ドラゴンの輪郭がいっそう激しく揺らぎ、
光の粒となってほどけ始める。
限界は、もう、とうに超えていた。
その時――
セラフィスが、わずかに口を開いた。
「……あなた」
低く、静かな声。
呼び止めるように。
「心残りがあるのでしょう?」
ドラゴンの動きが、凍りついたように止まる。
否定の言葉は返ってこない。
ただ、重みのある沈黙だけが二人の間に落ちた。
セラフィスは、
どこか懐かしむように小さく肩をすくめてみせる。
「昔のよしみよ」
軽く言う。
だが、その声音には確かな重みがある。
「もう一度だけ――具象化できるようにしておいてあげたわ」
その言葉に、空気がわずかに揺れる。
ベラミカが息を呑む。
ジャックが、わずかに目を細めた。
セラフィスは続ける。
「ただし、発現は一度きり。彼が“気づいた時”だけよ」
その“彼”が誰を指すのか。
名前を呼ぶ必要はなかった。
それは、永い時を共有した者同士にしか分からない、
無言の境界線。
ドラゴンの瞳が、わずかに細められる。
理解した証のように。
「まあ……」
ふっと、わずかに口元が緩む。
「――あいつのことだから、絶対気づくでしょうけど」
その言葉には、確信があった。
ドラゴンの瞳が、静かに揺れる。
驚きと――
ほんのわずかな、安堵。
「……シファレス様……」
かすれた声は、もはや実体を持たない。
光が、奔流となってほどけていく。
時間は、もう残されていない。
それでも――
その存在は、最後まで消えない“何か”を残していた。
そして。
静かに。
確かに。
その輪郭は――世界から溶けるように、消えていった。




