おにぎり
農道脇の用水路には昨夜降った雨が薄く流れていた。見渡せば今年の稲もよく育ち、黄金色の穂が風に揺られている。男は満足そうに頷くと朝の散歩を切り上げ、自分が経営する小さなペンションに戻る。
そのペンションの前に女性が倒れていた。
「ここは地獄ですか?」
それがベッドの上で目覚めた女性の第一声だった。
「ただの物好きがやってるペンションだ」
残念そうにため息をついた彼女は三十過ぎくらいだろうか。酷くやつれ、俯くと目元に隈が出来ているようにも見えた。
「これを見てから死のうと思って、来たんです」
またその手合か。男は女性がポーチから取り出した折り畳んだパンフレットを受け取ると、それを広げた。表紙には青空を、裏には星空を印刷したこのペンションのパンフだ。
「死ぬのは勝手だが、人の家の前は多少迷惑だな」
「私は生かされてるんです。まだ贖罪が終わってないんです」
女はそう話を切り出し、自分が何故ここにやってきたのかを語った。
彼女は西園寺夕美と名乗った。自分を大切にしてくれる男性と出会ったと思ったが、その彼は料理に毒薬を入れて無理心中を図った。不幸にも、というべきか、彼女だけが生き残ったが、それがきっかけで酷い拒食症になり、十五キロ以上体重が落ちたという。
何度も入退院を繰り返していたが、ある時、道端に落ちていたこのパンフレットを拾い、自殺を決意したらしい。
「星が好きなのか?」
「違います。ただ、地獄に近い場所だ、と思えたんです」
自分が終の棲家として選んだ田舎町が、彼女にとってはそう見えたらしい。
「とにかくまずは腹ごしらえしなさい」
「でも私、本当に食べられないんで」
「いいから」
と、久慈は皿の上のおにぎりを夕美に勧める。彼女は何度も固辞したが、久慈が折れないと分かると「どうなっても知りませんよ」と前置きをしてから、とても小さな一口だけ、その塩むすびを齧った。
「うっ」
彼女は慌てて口を押さえた。
その仕草に無理をさせただろうかと不安になったが、彼女は涙を浮かべてこちらを見ると「おいしい」と消えそうな声で洩らした。
「そいつはな、俺の人生を救ってくれたおにぎりだ。人はな、どんなに辛いことがあっても、まだ生きてる。生きてるってだけで、こんなにもありがたいんだ。それを教えてくれるのが、おにぎりなんだよ」
夕美は「よく分かりません」と言いながらも、一口、もう一口と、その塩むすびを頬張った。いつの間にか彼女に笑顔が戻っていた。




