涙研究所
平日午後の映画館には人が疎らだった。沙也香以外には両手で数えられるほどしか人がいない。しかも何人かは映画を見てもいない。
画面では彫りの深い金髪の男性が女性を守りながら剣を振るっている。くるりと回転し、迫りくるゾンビを次々と切りつけては通路の奥へ逃げていく。よく分からない話だ。実際、途中で席を立ってしまう人もいた。
かと思えば今更途中入場する女性もいる。しかも白衣で。
彼女は沙也香の隣、一つ開けた席に座り、じっとこちらを見た。
「あなたの涙を採取させてもらっても、いいですか?」
その女は鈴木典子と名乗り、涙研究所と書かれた名刺を見せながら沙也香にこう説明した。
「こんな映画を見て泣いているあなたの涙に興味があります。採取して、涙を分析させてもらえませんか」
沙也香は交換条件として自分の別れ話を聞いてくれるならと提案し、二人で映画館を出てすぐのところにあるファミレスに入った。
「私ね、今日別れたんですよ。一年付き合った彼と」
彼は二つ年上だけれど、沙也香が余計な気を遣わずにいられる楽な相手だった。時に頼りなさもあったが、それでも居心地の良さは今までに付き合った男性の中で群を抜いていた。別れを選ぶことになったのもどちらかが浮気をしたとか、例えば暴力があったとか、そういった目立った瑕疵はない。一言にすれば「性格の不一致」ということになるのだろう。
出会ったのはネット上のあるサイトだった。映画について意見をする場で自分と感性が似ていると思った人物がいた。初めてのデートは鎌倉で、映画の舞台になった場所を歩いて一緒にご飯を食べ、その日のうちに意気投合した。
けれどいつからだろう。その予感はあった。
互いの仕事が忙しくなったこともあり、徐々に連絡がズレ、口論にはならなかったが黙ることが増えた。
「それでね、どちらかともなく別れましょうという話をして、今日別れたんです」
白衣の女性はデザートに注文したパフェのクリームを口の端に付けながら、大きく頷いた。
後日、沙也香の自宅に涙の分析結果が送られてきた。
それはこういうものだった。
「何よ、これ」
『あなたの涙には悲しみの成分は見つけられませんでした。そのことから、今回あなたが映画館で流していた涙はただの水であり、別れるという儀式の為の涙だったと、データは語っています』
それを読み上げ、沙也香は笑い声を上げた。彼女は生まれてから一度も、悲しみを感じたことがなかったからだ。




