欲望キネマ
オードリー・ヘップバーンにアラン・ドロン。モーガン・フリーマンやロバート・デニーロもいる。車寅次郎こと渥美清があの細い目で笑っている。くっきりと目立つ色合いで描かれた本物そっくりの映画看板はかつてはキネマの象徴だった。
野村健太はチケット売り場のカウンターから色の剥げたその大きな看板を見やり、溜息をつく。
まだ日は高い。浮浪者然とした男がアルコール臭と共に近づいてくる。どうやら本日最初の客らしい。
「ハーレム一枚」
男は嗄れた声でそれだけ言うと皺になった一万円札を出す。野村は「ハーレム一枚」と復唱し、釣り銭と一緒にチケットを渡した。男は口の右端を僅かに持ち上げそれを手にすると、その小さな映画館へと吸い込まれていく。
この映画館は自分の願望を体験することができるという特殊な館だった。どういう仕組みかは知らないがオーナーの代理人という男からはそう聞いている。
その日の午後だった。
薄いサングラスにマスク姿の女性がやってきて、上映リストを見ながら戸惑いがちに「地獄一枚」と言った。その声に野村は聞き覚えがある気がして「え? 地獄ですか」と思わず尋ね返した。
「はい。地獄一枚、お願いします」
「分かりました。地獄一枚、ですね」
二度目の声でその女性が誰か思い出したが、目線を合わせて気取られないように注意しながら彼女からお金を貰い、お釣りとチケットを渡す。
「ありがとう」
彼女は少し嬉しそうに言うと、しっかりとした足取りで映画館に入っていく。その背に声を掛けたくなった。何故なら彼女は十年ほど前に野村が入れ込んでいた歌手だったからだ。
好奇心だろうか。
ごく稀に彼女のように興味から「地獄」を選ぶ人はいるが、すぐに出てきてもう二度とここには近寄らない。だから彼女もすぐに出てくるだろう、そう思ってじっと入口を見つめていた。
日が傾き、外灯が点く。学生が何人かまとめてチケットを求めてきたけれど、十八歳未満は利用禁止だと言って追い返す。
その後は誰も客が寄り付かないまま閉館時間を迎えた。
だが彼女はまだ出てこない。
野村はチケット売り場のシャッターを閉める。映画館の入口の上の電灯が消え、入口に鍵を掛けようと警備員が出てきた。
野村は思わず「地獄」のチケットを手に取り「待って下さい!」と警備員に声を掛ける。首を傾げられたがチケットを見せ、
「鍵は閉めてもらって大丈夫です」
そう伝えて中に入っていく。地獄が待っていると、分かりながら。




