熱
アスファルトからはゆらりと熱気が上がって蜃気楼のような人の群れを男に見せていた。交差点だ。信号は赤から青へと変わり、待っていた人間たちが一斉に歩き出す。
久慈誠二は袖口がほつれたシャツで、横断歩道の上を歩いていた。すれ違った誰かが「くそ熱いな」と漏らしたが、不思議なほど久慈は熱を感じていない。体はだるく、足は左右ともに重い。前に出すことすら億劫だ。
駅前は混雑に満ちていた。顔も分からない有象無象の人間たちが集まり、好き勝手におしゃべりをしている。街頭の大型ビジョンは新商品のアイスバーを紹介していたが、そんなもの誰も見ていない。
「ねえ典子、知ってる?」
――熱を感じない人間の都市伝説。
それは紺のブレザーの女子二人組だった。年の頃はちょうど久慈の娘と同じくらいだろうか。
二人の話はこんなものだ。触れたものが熱くも冷たくもなく、その人の手を他人が触ると氷のようだという。熱を感じなくなったのは死神に熱を奪われたからで、体から完全に熱が消え去るまでに熱を取り戻せなければ魂が消えてしまうという、誰が考えたのか意味のよく分からないオカルト話だった。
ただ実際、今の久慈は熱を感じていない。宣伝していたアイスバーを食べても、鉄板の上で音を立てチーズを溶かしているハンバーグを口に入れても、感じない。美味くもなければ、腹も膨れない。
しかし思い返せば刑事をやっていた頃から久慈にとって食事とはこんなものだったかも知れない。家に帰っても何を食っているのか分からないまま胃袋に掻き込んで寝るだけだった。それがどんな思いをして作った味噌汁なのか鯖の煮付けなのか、それすら知らないままに。
今の久慈にはもう家族と呼べる存在はいない。
気づくと人気のない裏路地へと足を踏み入れていた。
足を止めたのは一軒の喫茶店の前だ。小さな黒板に『あつあつのココアあります』と書かれていた。
店内に客の姿はない。店員もおらず、手近な椅子に掛けると初老の紳士がやってきてオーダーを尋ねた。当然ココアを頼む。
ココアはすぐに来た。一口つけると、とても飲める熱さじゃない。
そう、熱かったのだ。
「熱い」
だから久慈はそう口にした。
「お客様、こちらのココアに熱をお感じになられましたね?」
「ああ。どうかしたのか?」
「こちらは生者の飲み物ではございません」
マスターの意味を理解できないままココアを覗き込むと、そこには久慈の顔ではなく、よく似た骸骨が映り込んでいた。




