場末のベヒシュタイン
狭い路地の奥にある、切れかかった照明で何とか営業中を知らせるような場末のバーだった。
「いらっしゃ……なんだ林さんか。今日はツケ払っとくれるんでしょうね」
挨拶のように言い慣れたママの声を無視して「バーボン」とだけ告げると、林は客のいない店内を見てからカウンター席に腰を掛ける。その手には皺になっていたが一枚の封筒が握られていて、差出人の名前が「月丘杏子」と書かれているのが見えた。
胸元が大きく開いたドレス姿でルイは棚からオールドクロウのボトルを手にし、グラスに注ぐ。カウンター上のキャンドル型ライトに照らされグラスの中の液体は黄金色に光ったが、林は無言でそれを奪うように手にし、ぐい、と一口飲み込む。
「それ、杏子ちゃんからでしょ。どうして一緒にアメリカに行ってやらなかったの?」
「行けると思うか? あいつの父親みたいな年齢の俺が」
「そりゃ一緒に向こうでデビューなんて都合のいい話は転がってないだろうけどさ。でもこのままじゃ杏子ちゃんが可哀想だよ。何も知らないんでしょ?」
返事はせず、林は視線を店の奥のグランドピアノに移した。そこには一部塗装が剥げ下の木が見えているが、ベヒシュタインという世界三大ピアノの一つが置かれていた。ヴァイオリンで言えばストラディバリウスのようなものとルイは説明されたが、何故それをここに置いたのかについては語ろうとしない。
グラスにはまだ半分ほど残っていたがそのまま手に取り、林はベヒシュタインへと向かう。蓋を開け、鍵盤のカバーを外す。ラの音を何度か鳴らし、続いてドレミを一音ずつ響かせていく。
ルイはそれを黙って見ながらカウンターを出ると、店の前の札をCLOSEDに替え、半分の明かりを落とした。
時刻はまもなく深夜〇時。あちらでは午後のリハーサルが始まる時刻だ。
林は息を大きく吸い込み、一度天井を見上げてから、鍵盤に指を置いた。力強く、それでいて繊細な音の階段から、曲は始まる。
空間に心地よい音が響き、包み込むような和音が幾重にも重ねられる。そのリズムに身を浸すとピアノだけなのに、他にもビオラやフルート、チェロといった楽器の音までがその場に生まれ、消えていく感覚に陥った。
林賢司。
ルイが手にした古いパンフレットにはまだ若い頃の彼の精悍な顔つきが、モノクロ写真で掲載されている。若き新星と題され、有名な音楽一家の長男として当時一番の期待を背負っていたことが短い文章で綴られていた。




